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「生きる」 |
| 生きる 1952・東宝 | |||
![]() 製作:本木荘二郎 監督:黒澤 明 脚本:黒澤 明 橋本 忍 小国英雄 撮影:中井朝一 音楽:早坂文雄 出演:志村 喬 小田切みき 金子信雄 関 京子 浦辺粂子 菅井きん 丹阿弥谷津子 田中春男 千秋 実 左 ト全 藤原釜足 中村伸郎 渡辺 篤 木村 功 加東大介 宮口精二 伊藤雄之助 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
物語 一枚のレントゲン写真がある。その写真には末期の胃がんの病状が写されていた。 渡辺勘治(志村喬)は市役所の市民課長を務める53歳の男だ。書類の山に囲まれ、判子を押すだけの毎日だ。それが30年も続いている。最近、胃の調子が悪く、時々薬を飲む。時計が気になる。顔色も冴えない。 主婦のグループが市民課に陳情にやって来た。近所に汚水溜めがあるため子供が病気になる、何とかできないものか、例えば公園を作るとか・・・というものだ。 渡辺は顔も上げずに答える。「土木課」 彼女たちの訴えは、土木課から始まって、公園課、水道課、衛生課、予防課、防疫課、下水課、道路課、都市計画部、区画整理課と、あちこちにたらい回しにされ、結局どこも真剣に取り合おうとせず、主婦たちは憤慨して帰っていく。 しかし、市民課の窓口には、はっきりとこう書いてある。
渡辺が病院へレントゲン写真の診断結果を聞きに行く。聞くのが恐ろしい。だが、自分の体は自分が一番良く解る。渡辺は既に自分が胃がんであると確信しているのだ。それも末期の。だから、医師(清水将夫)がとりすまして、「・・・胃潰瘍ですな、少し症状が進みすぎてますが・・・」と言うと、「おっしゃって下さい、イ、胃がんだとおっしゃって下さい・・・」と、食って掛かるのだ。 医師は渡辺が帰った後、若いインターン(木村功)に聞く。 「もし、君がね、あの人のようにもう4ヶ月しか命がないとしたら、いったいどんなことをする?」 絶望に打ちひしがれた渡辺は、家に帰った。妻に先立たれ、仏壇の遺影を見つめる。一人息子の光男(金子信雄)は嫁との会話に終始し父親を無視している。渡辺は自分の病気を打ち明けようと思うがきっかけが掴めない。 渡辺は一人、布団の中でむせび泣くのだった。 翌日、渡辺は預金を下ろし、町をさ迷い歩く。市役所の同僚達は無断欠勤する渡辺をいぶかった。何しろ、渡辺はあと1ヶ月で30年間無欠勤の表彰ものだったからだ。 ある酒場で渡辺はある小説家(伊藤雄之助)と出会い、自分が末期の胃がんだと告白した。 「・・・しかし、胃がんとわかっていて、酒を飲むなんて、まるで自殺・・・」小説家が言うと、 「ところが・・・死ねません・・・ひと思いに死んでやれ・・・そう思っても・・・とても・・・死ねない・・・しかし・・・時々は、胃がんのことも・・・いやなことも・・・忘れますし・・・」渡辺はしどろもどろに答える。 小説家は一人で感動し、余命幾ばくも無いこの男の最後の快楽を味合わせようと歓楽街の案内役を買って出るのだった。 パチンコ屋の喧騒、キャバレーの女たち、バー、ダンスホール、ストリップ劇場・・・。「エクセ、ホモ、この人を見よさ。この人は胃がんという十字架を背負ったキリストだ。」小説家は息巻く。渡辺にとって、いまだかって来た事のない場所ばかりだ。これが生きるということなのか。しかし、何故か空しい。 キャバレーのピアニストの伴奏に合わせ、渡辺が覚えているたった一つの歌、「ゴンドラの唄」を口ずさむ。 ♪いのち短し 恋せよ乙女 紅き唇 あせぬ間に・・・♪渡辺が一点を見つめ歌う、その目から涙が伝い落ちる。 朝帰りの渡辺が憔悴して帰宅しようと歩いているところで、若い女子職員の小田切とよ(小田切みき)に出合った。市役所に退職願いを出したいので課長の判が必要だというのだ。家に連れ帰り、用紙に判を押してやる。渡辺はとよの靴下に穴があいているのを見て、再び二人で出かける。 息子夫婦はそんな様子を見て、父親が女遊びをしているのだと勘違いするのである。 とよに靴下を買ってやった渡辺は喫茶店に誘った。とよは市役所の連中に“あだ名”を付けていた。 “なまこ”「・・・?」「あの人よ、ぬるぬるしていてつかみ所がないでしょ」「なるほど」 “ドブ板”「・・・?」「365日、じめじめ」「あいつだな」思わず、渡辺も笑う。 “蝿取り紙”「あっちにベタベタ、こっちにベタベタ」「ハハハッ」 「課長さんにも付けてあるのよ」「ほう・・・?」「・・・ミ・イ・ラ」 ・・・渡辺は納得した。自分は長い間、生ける屍だったのだから。 その後、パチンコ屋、スケートリンク、遊園地でとよと過ごす渡辺。とよの屈託の無い若さにすっかり魅了されるのだった。 渡辺はとよの新たな職場へも押しかけた。迷惑そうな顔でとよは、「今度だけよ」と言いながら付き合った。お茶を飲みながら、「何故、わたしのところへ来るのよ」とよは、言った。「・・・その・・・君と話していると・・・その・・・」 渡辺は、自分が胃がんであることを話した。とよはウサギの人形を出した。テーブルの上をカタカタと動き回る。「今、こんなものを作っているの。結構楽しいのよ。日本中の子供と仲良くなったような気がするわ。・・・課長さんも何か、作ってみたら?」 「・・・もう・・・遅い・・・」渡辺はじっと人形を見つめている。そして、何かに取り憑かれたような表情になり、鬼気迫る笑いを浮かべ、とよをニッと見た。とよ、ヒッとのけぞる。 渡辺は何日ぶりかで出勤した。そして、すぐさま先日主婦達が陳情に来た例の汚水溜めのある土地の視察に出かけたのだ。 雨が降りだしぬかるんだ土地だった。主婦の一人(菅井きん)が傘を差し伸べる。渡辺は確信した。やる気さえあれば、この場所を公園にできると・・・。 渡辺はそれから5ヵ月後に死んだ。渡辺は雪の降る中、出来上がったばかりの公園で死んでいたのだ。 渡辺の家で通夜が営まれた。市役所の同僚、部下、上司が集まった。 渡辺は凍死した、いや、自殺したのだ、いや、実は胃がんだった、しかし彼はそれを知らなかった、いや、知っていてその上で公園を作ったんだ。話は紛糾する。 助役(中村伸郎)は、「あの公園を作ったのは渡辺君という人がいるが、違うね、そりゃ、彼が色々苦労したのは知ってるがね」と、いかにも自分が公園作りの一番の功労者だと言わんばかりの発言をすると、皆は納得するように頷く。 ただ一人、木村(日守新一)だけは、渡辺の尽力がなければ、あの公園は絶対出来なかったのだと、渡辺を弁護した。 公園作りの陳情に来た主婦達が連れ立ってやって来た。渡辺の遺影に焼香すると、すすり泣く。渡辺の働きに心から感謝し、その死が信じられないのである。 部下の大野(藤原釜足)は、渡辺の後について、様々な課を歩き回った。水道課、公園課、助役室・・・そして、ある日、地元のヤクザにからまれる一幕さえあったのだ。 大野「・・・課長は腹が立たないんですか・・・こんなに踏みつけにされて・・・」 渡辺「いや・・・私は・・・人を憎んでなんかいられない・・・私には・・・そんな暇はない」 渡辺は粘り強かった。断られても断られても何度も粘り強く説いた。 助役などは渡辺の話をまともに取り上げなかった筆頭の人物なのである。大野は当然、そのことは知り尽くしているが、役人の悲しいさがであろう、助役に頭が上がらないのだ。 警察官が来た。あの公園で渡辺の帽子を拾ったといい、届けに来たのだ。そして言った。昨夜、公園で渡辺を見たと。雪の降る中、渡辺はブランコを揺すりながらなにやら歌を歌っていたというのだ。渡辺はほのぼのと笑みを浮かべていた。
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| 映画館主から 黒澤明が人間の生と死の問題に真っ向から取り組んだ話題作。 主人公の市民課の課長が自分の死期を悟った時、初めて“生きる”とは何かを掴んでいく物語です。彼の場合は30年間の生ける屍のような人生に終止符を打ち、公園を作るという行動を通して“生きた”のです。 ドストエフスキーのさまざまな小説の場合と似て、人間の死という孤高の姿を鋭く描いて感動を呼びます。それは、とよの「課長さんも何か作ってみたら?」という一言から始まったのです。 映画の構成は巧みです。中盤で渡辺の通夜の場面となり、渡辺の公園作りの奔走は通夜の席に集まった人たちの回想場面として描かれています。 黒澤映画の常として、シナリオは複数の作家、今回は橋本忍、小国英雄、それに黒澤です。 歓楽街を案内するファウストのメフィストフェレスのような小説家を伊藤雄之助が飄々と演じて怪演です。 志村喬の代表作でもありましょう。演技が少し神経質すぎたきらいはありますが、末期の胃がんになった人間でなければ真相はわからないでしょう。その志村も黒澤の次の作品「七人の侍」(’54年)で、侍のリーダー勘兵衛となって鮮やかに蘇えります。 本作は、「悪い奴ほど良く眠る」(’60年)同様、黒澤の官僚批判映画にもなっている点が興味深いところです。 さて、私も志村の演じた渡辺課長の53歳を越えてしまいました。私にとって“生きる”とはどういうことなのか。家族の為に、誰かの為に、あるいは自分の為に何をなすべきか、どう“生きる”か。なかなか結論の出ない難問であります。 |