〔蒙古國牒状 南都東大寺尊勝院所藏〕上天眷命大蒙古國皇帝、奉書日本國王、朕惟自古小國之君、境土相接、尚務  講信修睦、況我祖宗受天明命、奄有區夏、遐方異域、畏威懷徳者、不可悉數、朕即位之初、以高麗无辜之  民久瘁鋒鏑、即令罷兵還其疆域、反其旄倪、高麗君臣、感戴來朝、義雖君臣、而歡若父子、計王之君臣、亦  已知之、高麗朕之東藩也、日本密迩高麗、開國以來、亦時通中國、至於朕躬、而無一乘之使以通和好、尚  恐王國知之未審、故特遣使持書布告朕意、冀自今以往、通問結好、以相親睦、且聖人以四海爲家、不相  通好、豈一家之理哉、至用兵、夫孰所好、王其圖之、不宣、    至元三年八月日  高麗國王王〓、右啓、季秋向闌、伏惟大王殿下、起居万福、瞻企瞻企、我國臣事蒙古大朝、稟正朔有年于  茲矣、皇帝仁明、以天下爲一家、視遠如迩、日月所照、咸仰其徳化、今欲通好于貴國、而詔寡人云、海東諸  國、日本與高麗爲近鄰、典章政理、有足嘉者、漢唐而下、亦或通使中國、故遣書以往、勿以風濤險阻爲辭、  其旨嚴切、茲不獲已、遣朝散大夫尚書禮部侍郎潘阜等、奉皇帝書前去、且貴國之通好中國、無代無之、  況今皇帝之欲通好貴國者、非利其貢獻、但以無外之名高於天下耳、若得貴國之報音、則必厚待之、其  實與否、既通而後當可知矣、其遣一介之使以往觀之、何如也、惟貴國商酌焉、拜覆、    至元四年九月日 啓 ○中略  奧書  文永五年二月之候、於西郊龜山殿大多勝院道場、勤仕後鳥羽院御八講之間、此程寄宿注性稱願房  之住房之次、借請彼房主之本、即誂其房主、令書寫之畢、當時天下無雙勝事、只有此事、仍爲後覽所書  寫之也、依諸卿之評定、返牒不被遣之云々、委細之事、追可尋記之而已、                        華嚴宗末葉法印釋宗性 尊勝院、年齢六十七、夏臈五十五、   神宮司廳『故事類苑 外交部』1983年、吉川弘文館、より抜粋。 <書下し文(抄)>   蒙古国書 至元三年(1266)八月 上天の眷命せる大蒙古国皇帝、書を日本国王に 奉る。朕惟んみれば、古より小国の君、境土相 接すれば、尚努めて信を講じ睦を修む。(中略) 朕即位の初め、高麗の辜なき民の久しく鋒鏑につ かるるを以て、すなはち兵を罷め、その疆域を 還し、その旄倪を反らしむ。高麗の君臣、感戴し て来朝せり。(中略)高麗は朕の東藩なり。日本 は高麗に密迩し国を開きて以来、また時に中国に 通ず。朕が躬に至りては、一乗の使の以て和好を 通ずるなし。尚恐らくは王国のこれを知ること未 だ審らかならざらん。故に特に使を遣はし、書を 持ちて朕が志を布告せしむ。冀はくは、自今以往 問を通じ好を結び、以て相親睦せん。(中略)兵 を用ふるに至りては、夫れ孰か好むところならん。 王それこれを図れ。不宣。            (『調伏異朝怨敵抄』) </書下し文(抄)>   関幸彦著『神風の武士像 蒙古合戦の真実』2001年、吉川弘文館、より抜粋。