火宅の譬喩(三車火宅の喩)
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2002/02/11 修正
(2001/08/02 公表)
梵語原本"Saddharmapundarika 3.Aupamya"、漢語訳鳩摩羅什『妙法蓮華経譬喩品第三』、参考文献中村元編『大乗仏典』1974、筑摩書房、参考文献坂本幸男、岩本裕訳注『法華経(上)』1991、ワイド版岩波文庫41
仏教説話には数多くの色々な話がありますが、この説話は特に仏教界では非常に有名なものです。
この説話は、「この世は燃盛る家のやうに苦悩に包まれた所なのだ。巧妙な手段で救つて上げよう」と云ふのが其の主な内容なのですが、物語としても上手く出来てゐます。個人的にも好きな文章です。
法華経の膨大な長文の中から極一部を取出してみます。構成は、散文と韻文があり、夫々が補完し合ふ形式となつてゐます。訳文の原文は「現代仮名遣い」ですが、敢へて歴史的仮名遣ひに改変致します。
火宅の譬喩(散文)
舎利弗よ、国や村や聚落に老いた長老がゐたとしよう。富裕で財産は無量であり、田も家も下男たちもたくさん持つてゐた。
其の家は広大であるのに門は唯一つであつた。百人乃至五百人の人が其の中に住んでゐた。堂閣は朽ち古び、垣や壁は崩れ落ち、柱の根は腐り、梁や棟は傾いて危い有様であつた。
其の家に突然火が起つて燃えはじめた。長者の子供たち十人、二十人、乃至三十人もこの家の中にゐた。長者はこの大火が四方から起つたのを見て、大いに驚き恐れてかう思つた——
『私だけはこの焼けてゐる家の門から安穏に出る事が出来たけれども、子供らは燃えてゐる家の中で遊び戯れる事を楽しみ執着してゐて、悟らず、知らず、驚かず、怖れず、火が其の身に迫り、苦痛が自分に迫つて来てゐるのに、心に厭はしいとも思はず、家から出て行かうとする気持ちが無い』と。
舎利弗よ、この長者はかうも思つた——
『私は体にも手にも力がある。花皿や机でも抱へ出すやうにして彼らをこの家から出す事にしようか』と。
また更にかうも思つた——
『この家にはたつた一つの門しか無く、また狭小である。子供たちは幼稚でまだ火事と云ふものを知らないから遊び戯れる事に執着してゐる。或は火の中に転げ落ちて焼死ぬかも知れない。
私は彼らに火の怖ろしい事を説いてやらう。この家はもう焼けてゐる。早く逃出して、火に焼かれないやうにしなさい、と』と。
かう考へて、考へた通りに備に火事の怖ろしさを諸々の子らに告げて、『お前たち、早く家から出なさい』と、父は子らを憐れんで、言葉を尽して誘ひ諭したけれども、
遊び戯れる事を楽しみ執着してゐる子らは、言ふ言葉を信じ受入れようとはせず、驚かず、畏れず、遂に家から出ようと云ふ心がなかつた。
火とは何であるか、何を失ふのかを知らず、唯東西に走り戯れて、父を見やつてゐるばかりであつた。
其の時長者はかう思つた——
『この家は既に大火に焼かれてゐる。私とこの子らが此処から出なかつたら必ず焼死ぬであらう。私は今、方便を設けて、子らをこの危難から免れさせねばならぬ』と。
父は、この子らが夫々、様々な珍しい玩具、変つたものに直ぐ飛附いて喜ぶ心があつた事を知つてゐるので、かう告げた——
『お前たちが喜んで弄ぶ玩具で、手に入れる事がとても難しいものがあるのだ。若し其れを今取りに行かなかつたら、後できつと後悔するだらう。
其れには色んな種類のものがある。羊の車、鹿の車、牛の車が今、門の外にあるのだ。其れで遊び回る事が出来るだらう。
お前たちはこの燃えてゐる家から早く出て行け。お前たちの欲しいものは何でも皆やらう。』
其の時、子らは、父が珍しい玩具の事を話すのを聞き、其れを欲しがつて心は勇み立ち、互ひに押合ひ、先を争つて燃える家から走り出た。
この時長者は、子供らが安全に家から出る事が出来て、皆、四辻の広場に坐つて無事であつたのを見て、心は落着き、歓喜し、躍り上がつた。時に子供らは各々、父にかう言つた——
『父よ、先にあげると言はれた羊の車、鹿の車、牛の車の玩具を私たちに下さい』と。
舎利弗よ、其のとき長者は夫々の子らに同じ大きな車を与へた。其の車は高く大きく、様々な宝石で飾り、欄干を巡らし、四面に鈴を掛けてあつた。また其の上に天蓋を吊り、色んな珍しい宝石で美しく飾つてあつた。
宝石の縄を巡らして花房を垂らし、敷物を重ねて敷き、朱の枕を置き、白い牛が牽いてゐた。其の肌の色は清らかで、形は美しく、大筋力があり、歩く時は平正であり、疾い事は風のやうであつた。また、多くの下男たちが此れを守つてゐた。
其れは何故かと云ふと、この大長者は富裕で財貨は無量であり、種々の倉庫は悉く皆、充満してゐたからである。そしてかう思つた——
『我が財物には極りが無いのであるから、劣つた小さな車を子供らに与へてはならぬ。今この幼い子らは皆、我が子であるから、愛するのに差別は無い。
私にはこのやうな七宝造りの大いなる車があつて其の数無量である。正に平等な心で各々に此れを与へるべきであり、差別してはならぬ。
其れは何故かと言ふと、私のこの車を国中に給したとしてもなほ乏しくはならないからである。況や子供らに与へるぐらゐ何程の事があらう』と。
火宅の譬喩(韻文)
- 39
- 例へば長者に一つの大いなる邸宅があつたとしよう。
其の邸宅は古び、破れ腐れ、
堂舎は高く危く、柱の根は摧け朽ち、
- 40
- 梁や棟は傾き、斜めとなり、階段は腐れ壊れ、
垣や壁は破れ裂け、塗り土は剥げ落ち、
覆つた苫は乱れ落ち、椽や梠は食違ひ脱け落ち、
- 41
- 巡らした障壁は曲り、汚れた物が充満してゐたとしよう。
この中に五百人の人が住んでゐた。
- 42
- 鵄、梟、熊鷹、鷲、烏、鵲、山鳩、家鳩
- 43
- 蜥蜴、蛇、蝮、蠍、百足、げぢげぢ、
井守、おさむし、鼬、二十日鼠、鼠などの
諸々の悪虫などが、互ひに欲しい侭に走り回り、
- 44
- 屎尿の臭い所には不浄物が流れ溢れ、
糞虫などが其の上に集り、
狐、狼、子狐が咬み、踏み荒して、
- 45
- 死屍を咬み食ひ、骨や肉は散ばり、
此れに群る犬は競つてやつて来て、搏ち掴み、
- 46
- 飢ゑ疲れ、怖れて、処々に食を求め、
闘ひ争つて引き摺り、啀み、歯噛みして吠える。
其の舎の恐怖に満ち、変つてゐる有様はこのやうである。
- 47
- 至る所に山の妖精、水の妖精、夜叉、悪鬼がをり、
人肉・毒虫などを喰らひ、諸々の悪鳥、悪獣は、
- 48
- 産んで卵を孵し、乳を飲ませ、各々自ら隠し護つてゐるが、
夜叉は競つてやつて来て、争つて此れを喰らふ。
- 49
- 此れを食して飽けば、悪心は愈愈高まり、
闘争する声は甚だ怖ろしい。
- 50
- 鳩槃荼鬼は土塊の上に蹲り、
或る時は大地を離れる事一尺二尺、
- 51
- 往つたり返つたり遊び回り、欲しい侭にはしやぎ回り、
犬の両足を捕へて、撲つて声も出ないやうにし、
脚で頚を絞め上げて犬を脅かし、自ら楽しんでゐる。
- 52
- また、其の家の中には、其の身は長大であり、
裸で黒く痩せた鬼どもが住み、
悲鳴をあげて食ひ物を求めてゐる。
- 53
- また、首は牛の頭のやうな鬼どもがゐて、
或は人の肉を喰らひ、或は犬を喰らふ。
頭髪は蓬のやうに乱れ、残害すること凶険であり、
飢ゑや渇きに迫られて叫喚し走り回つてゐる。
- 54
- 夜叉と餓鬼と、諸々の悪鳥悪獣とは、
飢ゑに迫られて窓から四方を窺ひ見てゐる。
- 55
- このやうな諸々の難があつて、恐ろしいこと無量である。
この朽ち古びた家は或る人の持物である。
- 56
- 其の人が近くに外出して間も無く、
其の家に突然火が起り、
- 57
- 四面一時に火が燃え盛つた。
棟や、梁や、椽や、柱は弾け、裂け、
摧け折れて落ち、垣も壁も崩れ倒れる。
諸々の鬼どもは声をあげて大いに叫ぶ。
- 58
- 熊鷹や、鷲などの諸々の鳥と鳩槃荼鬼らは、
慌て、驚いて、出る事も出来ず、
悪獣・毒虫は穴に隠れて逃れる。
- 59
- 悪鳥悪獣どももまた其の中にをり、
福徳薄いがゆゑに火に迫られ、
共に相残害して血を飲み肉を喰らつてゐる。
- 60
- 子狐の類ひは疾うに死んでしまひ、
諸々の大悪獣は競つてやつて来て其れを喰らふ。
臭い煙は乱れ起つて四面に充満し、
- 61
- 百足、げぢげぢ、毒蛇の類ひは、
火に焼かれて争つて穴から走出し、
鳩槃荼鬼は其れを片つ端から取つては喰らつてゐる。
また、諸々の餓鬼は頭の上が火に焼け、
飢ゑや渇きに激しく悩み、慌てふためいて悶え走る。
- 62
- 其の家はこのやうに甚だ恐ろしい有様であり、
毒害・火災などの多くの難が並び起つた。
この時、家の主は門外にあつて立つてゐたが、
- 63
- 或る人から「あなたの子供らは、
以前にいつも遊び戯れてゐたのでこの家の中に入つて来て、
幼くはあり、無知でもある為に、遊びに夢中になつてゐる」と告げられた。
- 64
- 長者は此れ聞き終つて驚き、
上手く救ひ出して、焼死ぬ事が無いやうにと、燃える家の中に入つた。
- 65
- 彼は子供らに教へ諭し、諸々の苦難について説いた。
「悪鬼や毒虫がゐる上に火は燃広がり、
多くの苦難が連続して絶える事が無い。
- 66
- 毒蛇や、蜥蜴や、蝮や、諸々の夜叉や、
鳩槃荼鬼や、子狐や、狐や、犬や、
熊鷹や、鷲や、とび鵄や、梟や、おさむしなどは、
- 67
- 飢ゑや渇きに悩まされること急であつて甚だ恐ろしい。
この苦さへどうしやうもないのに、更に大火であるのだ」と。
- 68
- 子供らは無知であつて、父の誨へを聞いても、
なほのこと楽しみ執着して遊び回つて止まない。
- 69
- このとき長者はかう思つた——
「子供らはこのやうに私の愁ひを増させるばかりだ。
- 70
- 今この家には一つとして楽しみは無い。
然も子供らは遊び回る事に溺れて
私の教へを聞かず、火に焼き殺されようとしてゐる」と。
其処で諸々の方便を考へて、
- 71
- 子供らに告げた——「私には種々の珍しい玩具がある。
美しい宝石で飾られた立派な車がある。
羊の車、鹿の車、大きな牛の車なのだ。
- 72
- 其れらは今、門の外にある。お前たち、出ておいで。
私はお前たちの為にこの車を造らせたのだ。
思ふ存分、其の車で遊び回りなさい。」
- 73
- 子供らは、このやうな車があると聞いて、
直ぐ様、先を争つて外に走出し、
空地に至つて諸々の苦難を離れる事を得た。
- 74
- 長者は、子供らが燃える家を出る事を得て、
四辻に坐つてゐるのを見て、獅子の座に坐り、
自ら喜んで言つた——「私は今、やつと安楽になつた。
- 75
- この子供らは生育する事が甚だ難しく、
愚かで幼く、無知であつて危険な家の中に入つた。
多くの毒虫や山の妖精がゐる畏るべき所にゐた。
- 76
- 大火猛焔が四面に起つたのに、
この子供らは遊び回る事に執着し楽しんでゐた。
然し、私は既に彼らを救ひ出し、難を脱れさせる事が出来た。
人々よ、其れで私は今、安楽なのだ」と。
- 77
- 其の時、子供らは、父が安心して坐つてゐるのを知り、
皆、父の所にやつて来て、父に向つてかう言つた——
「願はくは私たちに三種の宝車を下さい。
- 78
- 『子供たちよ、家から出て来たなら、
三種の車で思ふ存分遊びなさい』と前に許された事が本当なら、
言はれた通りに与へて下さい。今こそ其の時です」と。
- 79
- 長者は大いに富み、蔵はいつぱいである。
金・銀・瑠璃・しやこ・瑪瑙などの
多くの宝石によつて諸々の大きな車を造つた。
- 80
- 美しく飾り立て、欄干を巡らし、
四面に鈴を掛け、金の縄を巡らし、
真珠の網を其の上に張り巡らし、
- 81
- 金の花房が処々に垂下り
色彩豊な織物を回り一面に飾り、
- 82
- 軟かな絹綿を褥にし、
価千億もする真白で清らかな上等の毛布で其の上を覆つてあつた。
- 83
- よく肥えて力が強く、形も美しい大きな白牛が
この車に繋がれ、
大勢の従者たちが此れに従つてゐた。
- 84
- この美事な車を、平等に子供らに与へたので、
子供らは喜びに躍り上り、
この宝車に乗つて四方に遊び、
遊び回つて楽しむこと自由自在であつた。
関聯頁