- 日本は古建築を粗末にしているか?
- 1 名前: 紫苑師
投稿日: 2000/12/23(土) 09:33:14
- メールでやりとりするのはなんなので、ここでゆっくり展開しましょう。
ややお互いの理解に齟齬を来したきらいがあるので、法律家らしく争点を整理しましょう。
【争点整理手続】
□浦に〜と師の主張
日本人は、「古建築を粗末に扱っているように見えます。ここで言う古建築とは・・・専ら明治以降の近代建築のことです。」
■紫苑師の整理
日本人に、古建築や施設(以下歴史的建造物と総称)を粗末にする心情があるか否かという問題には、現代においてはそのような心情があるのか、又は日本人の民族的性格としてそのような心情があるのかといういささか趣を異にした争点があります。
そして、前者の問題には、江戸以前の伝統的建造物に対する心情と、明治以降の近代的建造物に対する心情は、区別して論ずる必要があるように感じます。なぜなら、明治以降の建造物は専ら実用を念頭に置かれた建物として、実用に適さなくなれば、保存に値する価値を認められない傾向があるような印象を受けるからです。
それゆえ、明治以降の近代的建造物に対する態度を見て、一概に日本人に歴史的建造物を粗末にする心情があるとは断言できないと思われるのです。
そこで、現代において歴史的建造物を粗末にする心情があるか否かという問題は、
(1)江戸以前の伝統的建造物に対する心情
(2)明治以降の近代的建造物に対する心情
(3)それらの上位概念としての、現代日本人の歴史的建造物に対する心情
というように論ずるのが、順当とも思われます。
そして、(2)については、特殊性が認められるとすればそれはなぜか、他国特に欧州とどのような相違点があるのかという分析を要するように思われます。勿論、これらは相互に比較をようする問題ですから、単純に分割はできません。
- 2 名前: 収斂
投稿日: 2000/12/24(日) 17:48:18
- はじめまして収斂です。いきなりなので、これまでの討論内容がよく分からないのですが、日本は古建築を粗末にしているのかという点について言わせてもらえば、私も、浦に〜と管理人の意見に近い感覚を抱いております。そう感じる理由は二つあります。
一つ目の理由は、古建築は、歴史的評価が下されたかどうかで保存が決定されるからです。紫苑師さんは、伝統的建造物に対する心情を江戸時代以前と、明治期以後で区別されていますが、私はむしろ明治時代以前と大正・昭和初期で線引きをしたいのです。明治時代の建築は既に数が少なく、その評価も既に下されたものが多いため、保存対象になっているものが多いのは事実です。江戸時代以前の建造物についてもそうであり、そういったものは、何らかの形で保存対象になっております。しかし大正・昭和初期の建造物はまだそういった評価がなされていないものが多く、結果として破壊される場合が多いのです。そのことが日本は古建築を粗末に扱っているように見えるのだと考えます。
もう一つは景観を配慮した都市設計がされていないため、粗末に扱っているように見えるのではないかと思うのです。私は趣味でよく各地の伝建地区を回ります。たしかにそういった地区はよく整備がされています。例えば派手な看板、自動販売機、電柱は極めて少ないですね。またアスファルトの道は、石やよく似たブロックで舗装しているところも多いです。しかしそういった地区を出た途端、急に雑然とした街になるのです。そのギャップが大きすぎるのです。これは近代建築に限ったことではなく、京都や奈良などの歴史的建築物が多いところでさえそうなのです。こういった現実は、私は行政だけに責任があるとは思えないのです。有名な寺院の近くに巨大な看板を立たり、ビラや広告が散乱しているのを見るとそう感じてしまいます。行政が条例を作らないと、貴重な景観を保存できなくなっている現実が確かにあるのです。さらに驚いた経験もあります。ある伝建地区が指定されたので、早速行ってみたことがあります。すると、そこに市民グループが大きな旗を立てて、伝建地区指定に反対を唱えているのです。住民の意見無視の指定に反対なのだそうです。その人たちが今でも反対しているのかどうかは知りませんが、こういったことは少しおかしくないだろうかと思うわけです。
日本の半分の地域が過疎地域といわれています。ですから、今後魅力ある街作りをしていくためには、よその街がやっていることをまねしても効果は期待できないでしょう。やはりその土地ならではの文化財の活用が必要だと思われます。また建物自体についても、今までのような20~30年で壊される安っぽいビルや住宅を量産していける社会ではなくなりつつあります。それは個人消費やゴミ問題などの社会的制約がますます厳しくなるからです。そうしてみた時、はたして今の日本の都市計画や設計理念どうでしょうか。大事な物を壊しすぎるのではないでしょうか。
私の持論は、古いものは大いに大事にし、またこれから造る物はせめて100年以上、できれば200年以上持つ建築を造るべきだと考えています。そういったビジョンを持って設計すれば、自ずと粗末な欠陥住宅は減るでしょうし、多少の装飾を持った優雅な建築が生まれるのではないでしょうか。(私は建築には装飾が絶対必要だと考えています)
さらに、近代建築でも、残す価値のある物は、なるべく残す草の根運動が必要ではないでしょうか。そういう意味で、私は登録文化財制度は有効と思います。これは保存及び活用についての措置が特に必要とされる文化財建造物を,文部大臣が文化財登録原簿に登録するもので、平成8年10月1日から施行されました。ただこれも昭和30〜40年代のビルを守れない可能性があります。価値の基準が明確でない以上、やむを得ないのでしょうか。
- 3 名前: 紫苑師
投稿日: 2000/12/25(月) 10:29:10
- はじめまして、収斂さん。
お忙しい中、レスありがとうございます。
さて、論議の内容ですが、少し説明不足だったので多少補足しておきます。
わたくし紫苑の問題意識は、現に現代日本人が歴史的建造物に対してとって
いる態度の基礎をなしている、民族的性格です。この民族的性格を考察する事
は、必然的に内省的な「民俗学」的な問題提起となります。
■収斂さんの意見第一点について
明治時代以前と大正・昭和初期で線引きをすべきとする点は、大変興味深い
視点だと思います。これらは、少なくとも最近の実情と符号する点があるから
です。
ただ、わたくし紫苑の問題提起としては、今の所、江戸時代・明治時代の線
引きの方が重要であると考えています。
その理由は、やはり日本人本来の伝統に対する尊重と、西洋から輸入された
新しい様式に対する尊重は、現代もなおその心情において違いがあるように思
われるからです。
つまり、輸入された生活様式は、「文明国」を築く上でのいわば「借り物」
であったので、きわめて実用主義的な態度が採られてきたという見方もできる
のです。
もっとも、それらの心情ではなく、「結果」としての保存状況という観点か
らは、明治時代以前と大正・昭和初期で線引きをすべきとする視点は、適切且
つ必要と言えると思います。
■収斂さんの意見第二点について
もう一つは景観を配慮した都市設計がされていないという点については全く
その通りだと思います。
むしろ、わたくし紫苑が疑問に思うのは、景観を配慮した都市設計というの
は白人社会独特のものであって、必ずしも日本だけがかかる非難に値するもの
ではないのではないか、という点です。
景観に配慮した都市計画が、白人社会のものなのか、それとも豊かな先進国
のものなのかは検証が困難ですが、もし後者であるならば、なぜ日本の意識が
途上国並なのかは分析を要するところだと考えます。
□紫苑師の問題提起第二点
これは、スレッドを改めて問題提起しようと考えていたことですが、景観に
配慮した都市計画や、歴史的建造物の保存は、メリットだけではなくデメリッ
トも当然あります。
それは、それらの住民所有の住宅や、歴史的建造物に対する自由な利用処分
が制約されるという事です。つまり、このような「保存」は、必然的に所有権の制約という見えないコストがかかっているのです。
なお、わたくしは心情的に「保存」には賛成ですが、中立公正な立場からす
れば、自由な利用処分を主張する側に分があると見えるのです。
勿論、所有権といえども絶対無制約ではなく、「公共の福祉」(憲法29条1項
)の制約を受けますが、保存派が「残す価値」とするものは、この公共の福祉
の内容をなすかは、必ずしも明確ではありません。
少なくとも、あなたの見た住民運動は伝建地区指定という権力の制約に対し
て、納得していないということになるでしょう。
結局、「残す価値」は、人権制約原理となり得るのか、なるとすればそれは
いかにして正当化されるのかが、わたくしの最大の問題意識なのです。
□附言
「収斂」さんの、このハンドルネームの由来は何ですか?それを考えると夜
も眠れません。
なお、紫苑「師」は既に敬称がついているので、「さん」まで付けなくても
わたくしは怒りません・・・(笑)。
- 4 名前: 浦に〜と(管理人)
投稿日: 2000/12/26(火) 07:53:58
- ちょっと論点が絡んでしまっているような感じがしましたので、まず整理させて頂きます。
議題を提起された紫苑さんは、1)現代においては日本人は古建築を粗末に扱うような心情があるのか、2)又は日本人の民族的性格としてそのような心情があるのか。と書かれており、1)を中心に話を始められました。
この争点に沿って、我が東京の例を重ねつつ、以下に私の意見を書きます。
私は紫苑さん、収斂さんとは違って、時代別で建築物の保存を考えるのではなく、建築物の種類で大きく3つに区別した方が良いと考えます。その3つとは、神社・寺院などの宗教建築、ビル建築、住居などの世俗建築です。
このうち宗教建築は聖地として昔から保存されてきましたし、今後もほぼ安泰でしょう。
ビル建築も最近は、大正から昭和初期の建築物を保存する動きが出てきているようで、今後は保存対象も増えていくと思います。しかし、保存対象になっていないものは未だに取り壊されているというのが現状でもあり、この辺は所有者の意向や諸事情(最も大きいのが日本が地震国であること)に拠るものと思われます。
ですから「日本人の古建築に対する心情は」という観点では結論は出ません。
世俗建築の場合は、江戸時代から明治時代に建てられた木造の屋敷などは保護対象になっていても、大正から昭和初期にかけての木造長屋、看板建築、銅板建築などはあまり保護されていないように見受けられます。これらは実際に人が住んでいるので問題は複雑です。
例えば防災上、木造家屋の密集地帯は危険だとする見方もあります。私も親戚が木造長屋の密集地帯に住んでるので、この点は決して人事ではないのですが、要は木造家屋の数ではなく、道路が整備されているか、道幅は十分か、また適切な避難場所はあるのか、という事が問題なのです。ですから区割りがしっかりした東京下町では、防災上特に重大な欠陥は無いと考えます。
また実際そこに住んでいる人も、新しい家に立て替えようとする人ばかりという訳でもありません。逆に、行政の再開発事業などによって町の一区画がまるまるビルに生まれ変わる、というケースが多いのです。
世俗建築の場合、再開発事業としてのビル化が今も進んでいて、全体的に軽んじられている気がしますが、だからといって住民もそれらを嫌っているという訳でも無いと思います。よって私は、世俗建築に関してもビル建築と同じく「日本人の古建築に対する心情は」という観点からは結論付けられません。
ビル建築でも世俗建築でも、日本人は近代建築をはじめとする古い建物にとても愛着を持っていると思います。その点から言えば、日本人は古建築を大切に扱い、親しみを持って接しています。つまり「日本人の古建築に対する心情は」大変良いということになります。
しかし地域開発や事業がからむと古いものを守っていくだけでなく、現代的なビルに建てかえるようになってしまうのです。これが良いことか悪いことかは、そこに住んでいる人、その町に通う人、そして行政が協調しあって決めていくべきです。私の目にはどうしても、行政が一方的に決めているように見えてしまいますので、「日本人」というよりも、「日本」は古建築を大切にせず利便性を追求している、というように感じます。
以上が私の見解です。
- 5 名前: 紫苑師
投稿日: 2000/12/26(火) 21:39:54
- なぜ心情か?(提題説明)
浦に〜と師は、やや誤解をさせてしまったようなので、説明させて頂きます。
わたくし紫苑は、歴史的建造物にたいする保存体制が、「心情」で論理必然的に決定される(結論が出る)とは考えていません。
これら保存体制は、多様な諸般の事情が複雑に影響し合って決定されるものです。
これらの諸因から、特に社会的意識としての「心情」を問題としたのは、それが最も大きな要因となると考えるからです。
すなわち、立法者が保存する必要があるとするその価値判断、被制約者の受忍の基礎となる価値判断、その規制に対する社会的評価は全て歴史的建造物に対する「心情」にその基盤を置くのであって、その当否はともかく検討に値するものだと判断しました。
■浦に〜と師の主張第一点について
浦に〜と師の、宗教建築・世俗建築の区分は、国際的観点からは極めて妥当だと思います。
しかしながら、こと日本に関する限り、その重層的宗教分布・国民の無関心といった特殊性によって、かかる区分に拘泥することは、却って適切な観点を失う危険があるように思われるのです。
神社・寺院といった宗教建築が、伝統建築の典型として想定されるのは、伝統建築の内、宗教建築の占有率が大きいからだと思います。
もし、これらの宗教建築がその宗教性によって保護に値すると考えられて保護政策が採られているならば、それは政教分離原則に反するものとしかいいようがありません。
仮に、かかる区分が決定的なものであると仮定しても、世俗建築に限って見れば、「江戸時代から明治時代に建てられた木造の屋敷などは保護対象になっていても、大正から昭和初期にかけての木造長屋、看板建築、銅板建築などはあまり保護されていないように見受けられ」(浦に〜と発言)るのであって、それは江戸以前の伝統的な様式か、明治以来の輸入された様式かという区分による「心情」の差がかかる立法政策の差異の原因と考えられるのです。
■浦に〜と師の主張第二点について
日本における保存体制は「行政」の姿勢によって決定されているとの主張ですが、この点は実際はよく分かりません。
少なくとも、そのような行政側の専横があるとすれば、それを是認する住民の「心情」があることが推認されるのであって、必ずしも行政の責任とばかりは思えないのです。
また、行政担当者も日本人の部分集合である以上、その価値判断を支える「心情」があると考えるのが自然ではないでしょうか。
□紫苑師の意見
「保存」に関しては所有者等利害関係人が影響を及ぼす事勿論ですが、その影響の度合は建物の性格に左右されるという見方ができます。
つまり、実用を予定した建物(ビル建築等)と主に存在が重要視される建物(宗教建築等)です。
これらは、所有者の利害の程度も異なり、また社会的評価(保存・改築)も異なるように見うけられるのです。
これが、保存に関する立法政策や世論の差異となるのではないかと思料します。
- 6 名前: 浦に〜と
投稿日: 2000/12/27(水) 22:54:38
- 紫苑さん>
ご指摘とご意見読みました。
この議題は「日本人の古建築に対する心情について」というもので、漠然としてちょっとやりにくいですね(^^;;;
でも、ま、私は、建築物への接し方は、建物が古い/新しいとか、社寺/住居といった目的など、いずれによっても線引きできないと思うのですよ。で、前回は、年代よりも目的で区分した方が綺麗に割り切れるかなー、と考えたわけです。
収斂さんも指摘された通り、「景観を配慮した都市設計がされていないため、粗末に扱っているように見える」というのが全てを要約しています。決して古くなったからといってバンバン壊すわけでもなく、統一せず、周囲を考慮せず、といった建設のあり方が問題でしょうね。
それから私は都市景観・計画などを学んだことがないので、単に東京の現状を見て、感じたことを言うまでです。
東京では、大正から昭和にかけての古い住居群が、街の一区画分完全につぶして高層ビルにするという計画を多く目にしますし、実際建設中の現場も、近所に数か所あります。これらは行政の事業に含まれるか否かは別として、行政が認めたものに相違ないですから、前回行政に言及したまでです。
それでも東京に関して言えば、古い長屋は数を減らしつつも、統一された景観の街並みは今後実現されそうです。勿論、何年もかかるでしょうが、いずれ綺麗な街になってくれると思ってます。
最後に、紫苑さんの意見に言を同じくします。
それでは、これにて。