- 世界遺産、なぜ拘る?
- 1 名前: R大学某学生
投稿日: 2001/3/11(日) 04:59:57
- 初めまして、最近地元の和歌山が世界遺産にうるさくなってきました。
そりゃ、良くも悪くも世界遺産候補となったわけですから、期待と不安
両方あります。個人的には高野山は奥の院霊廟は間違いないとして、百歩
譲って金剛峰寺と大門を入れていいか悪いかってところです。南紀の熊野は
どうも文化的価値というより、その信仰という面が重視されがちで、そう
考えると姫路城や法隆寺といった秀逸な建築とは程遠いですがね。熊野古道も
それこそ20年前とかは雰囲気出てたんですけどね。まあ、交通網も整備しないと
観光客も来てくれないから仕方ないんでしょうね。
そして、近年やたらと世界遺産に拘りすぎだと思います。高野山や熊野が
世界遺産への運動を活発にさせるのも、そりゃ文化財の再認識というのも
あるでしょうが、一番の狙いは知名度アップによる観光客増加でしょうね。
事実、熊野はともかく、高野山の参拝客は年々減少しています。そして、
世界遺産登録を観光振興の起爆剤にしたい、と。
こうなってしまうのも近年、やたらと目にする世界遺産のみを選んだ
写真集などのように、世界遺産だけに限定してしまう者が多すぎることが
生んだ障害じゃないでしょうか?正直、その文化の荒廃はともかくとして、
善光寺や松本城、一乗谷、仁徳陵、出雲大社、宇佐神宮、臼杵石仏など優れた文化はいっぱい
あります。信仰でも出羽三山、湖東三山、六郷満山、秩父などがあります。しかし、それ
らは世界遺産に登録されていないと言うだけで劣った見方をされてしまう
不平等が生まれるんですよね。事実、僕は京都に下宿していますが、宇治上神宮
とか西本願寺とかは、「?」です。金閣も金箔を張り替えたせいで、何か作り物
っぽく見えるし、銀閣も冬場に行けば、味気なく興醒めでした。それでも
どうして世界遺産に限定する必要があるのか、最近それが分からなくなってきました。
多くの場所で世界遺産への運動を進めたがる理由がここにあると思います。だけど
それ以前にそんな偏ったメディアに頼らず、己から日本の文化を見直し、そして
それを尊重していこうという動きがあれば、それこそ世界遺産に拘る必要も
なくなると思うんですが。
一言 世界遺産だけが優れた文化じゃない。
最近よく日本の世界遺産という写真集を見る。だが、それが必ずしも
世界遺産である必要性はあるのか?
自然遺産の場合、少なくとも自然なら屋久島や白神山地より雄大、
繊細で美しい自然はいっぱいある。正直両者は自然景観を楽しむ
場所じゃなくて、生態系の貴重さ故に登録されたはずなのだが。
- 2 名前: 浦に〜と
投稿日: 2001/3/11(日) 14:03:56
- はじめまして。世界遺産についてのご意見ありがとうございます。
まず、世界遺産の対象は秀逸な建築物だけではありません。最初の頃は、文化遺産に限って言えば、優れた建築物や美的価値を有する文化財が多数登録されていました。その後、文化的景観という新たな概念の登場によって、特に傑出した建築物が無くても、登録されるものが増えてきています。
例えば、フランス/スペインの「ピレネー山脈のペルデュ山」は、ヨーロッパではほとんど失われた山岳での農耕牧畜生活が今も存在し続ける場所として、世界遺産に登録されています。
次に世界遺産に拘りすぎというのは、少なくとも日本国内においてはそう感じてしまいますね。世界遺産に関する書籍が多いというのは、私は問題ではないと思うのです。問題は、「厳選・世界遺産」という類の書籍ですね。私はこういったものが嫌いです。世界遺産は
690箇所が登録されていて、その全部を見ないと、世界遺産について理解することなど出来ないからです。(もっと言えば、登録されなかった物件や、登録準備中の物件なども紹介すれば、なお良いと私は考えています)。
そういったことから、刊行当時の全遺産を網羅した講談社の「ユネスコ世界遺産」全集、また全遺産の映像化を目指すTBS系列の「世界遺産」は、内容に対する個人的な感想はともかく、大変素晴らしいものだと思います。
R大学某学生さんは「世界遺産のみを選んだ写真集などのように、世界遺産だけに限定してしまう者が多すぎる」と書かれていますね。私は、そうではなく、世界遺産の一部しか見せず、ゆがんだ形で世界遺産を一般に広めている書籍が多いと感じるのです。一部だけしか紹介しないもの、あるいは文化・自然紹介に終始して条約の本源を追求しない類の本なら、タイトルに堂々と「世界遺産」と書くのは止めてもらいたいくらいです。
またR大学某学生さんの仰る通りで、世界遺産になっているとすごい、なっていないと大したこと無い、という認識が広まっていることも、私もとても残念に思っています。国内外の旅行パンフレットを見ても、世界遺産になってると、赤や金色の文字で堂々と「世界遺産」と書かれます。それは事実だし、世界遺産として普遍的な重要性が認められた場所であるのは確かだから、その行為はまったくもって正当です。
けれど、そこが何故、世界遺産になったのかという事までは知られず、単に「ここは世界遺産だからすごいんだ」というような感覚が蔓延する原因であるように感じるのです。別に旅行パンフでそんな解説はしなくても良いのです。まともに世界遺産を紹介する媒体が、単に世界遺産という言葉を広める媒体に比べて少ないのです。
まとめると、問題は世界遺産であることではなくて、その紹介の仕方。しばしば、世界遺産そのものを目の敵にする発言を耳にしますが、そういうのは全く理解できませんし、それこそ、世界遺産の本質を知らないだけだろって言いたくもなります。
世界遺産である必要性や、世界遺産への拘りをいえば、例えばこう考えてはどうでしょう。
例えばドイツの建築や都市の文化・歴史のおおまかな流れを知るときに、世界遺産を見れば、一応、主要点はつかめるのではないでしょうか。しかしそれは、ドイツにある全ての優れた文化財を見ることとは違うのです。この区別が明確に理解できれば、世界遺産であることとの必要性とか拘りとか、登録されていない物も決して軽く扱ってはいけない事なども理解できるのではないでしょうか。(少々感覚的すぎて分かりにくい例えですね(^^;)
以上が私の意見です。
最後に。宇治上神宮とは、宇治上神社と同じですよね。私は宇治上神社に行ったことがあります。そして、簡素で静かな佇まいが大変気に入りました。現存する日本最古の拝殿・本殿であることも知れば、とても素晴らしく劇的な場所であるように思えて、900年以上も存在し続けることに対する不思議な感覚に襲われました。
それに京都が世界遺産に登録された理由は、個々の建築物の評価というよりむしろ、全体効果が大きいのです。日本の文化中心として、木造建築の発展が見られたから、京都は建築物群として登録されたのです。
- 3 名前: 収斂
投稿日: 2001/3/12(月) 03:24:37
- R大学某学生の学生さん>
長文ありがとうございます。多分あなたは立命館大学の学生さんですね。金閣や竜安寺の近くでしょ。私も何回かサークルの関係で遊びに行ったことがあります。
あなたの「己から日本の文化を見直し、そしてそれを尊重していこうという動きがあれば、それこそ世界遺産に拘る必要もなくなると思うんですが。」という意見はおっしゃる通りです。私もそう思います。
しかし私の身の回りのあまりに多くの人が、そういう日本の文化財を知らなすぎる現実があります。びっくりするくらいです。あなたのように京都にいれば、まだニュースなどで各寺院や神社の歳時記などが紹介されるから、知らず知らず京都や奈良の文化財に親しめるのでしょうが、地方では状況が全然違っています。何が重要なのかとか、なぜ価値があるのか、といった基本的なことを知らない、関心がない人が多すぎます。ですから、もし世界遺産というものが無ければ、法隆寺や姫路城すら、その価値を見出せない人が多くいたのではないでしょうか。少なくとも世界遺産が、身近な日本の文化財に価値を見出す人を増やすことに貢献したとしたら、それはそれで十分価値があったのです。そう思っています。
- 4 名前: 収斂
投稿日: 2001/3/12(月) 03:36:07
- あなたの指摘された、文化財について少しコメントします。ここの掲示板で前に話題になったものもあります。参考までにどうぞ。
善光寺は、偶然ここのスレッドにもありますが、世界遺産になるくらいの普遍的価値が少ないのです。松本城は、もともと廃城令で壊せれる寸前までいった城で、天守閣以外の遺構が少ない。実際今も天守閣は少し傾斜しています。あれが国宝なのは、数少ない戦国時代の城のため、平和な時代に出来た城と全く違い、実戦重視の防御装備がされているからですが、しかし世界遺産にするにはインパクトが弱い。一乗谷は貴重な戦国時代初期の遺構ですが、やはり現存するものが全くないためおそらく無理でしょう。最近復元した建物が多くできたみたいですが、世界遺産まではいきません。仁徳陵(大山古墳)は陵墓参考地です。調査されたのは明治時代初期の台風被害のときだけです。世界遺産級の価値がある数少ない日本の文化財であることは事実ですが、そういった別の理由で登録はされないでしょう。実際正倉院も登録が難しかったくらいですから。出雲大社は拝殿が戦後すぐに焼失し、今の拝殿は復元です。それでも世界遺産クラスの価値があると思いますが、登録されるなら建物自体より、古代出雲王国の文化財の一部という形をとるでしょう。この議論は前から掲示板でさかんにやりました。最近、出雲大社本殿前遺跡で興味深い発見が続いており、今後の動向に注視しています。宇佐神宮は廃仏棄釈で大損害を被った神社で、もしそれがなかったら今はない弥勒寺とともに世界遺産間違いなしだったと思います。ここの歴史的重要性は、道鏡の事件にもあるように昔から日本の歴史に大きな影響を与えてきたからです。ですからバーミヤンの過激派を見ると、廃仏棄釈を行った明治初期の大衆行動と重なります。我々は思想の違いで文化財を破壊する行為を今後起こさない教訓にしなくてはいけません。臼杵石仏は行けば分かるでしょうが、写真で見るより破損が深刻で、しかも規模も小さいです。大野川周辺の石仏と併せても登録は難しいでしょう。出羽三山も廃仏棄釈の被害が極めて大きかったところで、羽黒山五重塔は、たまたま雪の影響で破壊行動が遅れたから助かりました。ですから残念ですがここも現存するものが少ないです。湖東三山は、これに永源寺とか石山寺、琵琶湖周辺の文化財もいれて運動するといいかもしれません。実際、琵琶湖周辺には京都に劣らない貴重な文化\財が多いので、今後世界遺産が生まれる可能性もあります。しかし肝心の琵琶湖の生物環境がひどいので、それを克服してからでしょう。琵琶湖周辺は最近随分開発が進み、早急な対策が必要と感じます。六郷満山は富貴寺のような貴重な文化財がありますが、それを除けば文化財の数は意外と少なく、また、国東半島の貴重な森林も観光化の影響でひどい状況です。おそらく登録は無理でしょう。(行ったこと無いのですが)秩父は霊場が有名ですが国宝級の文化財が少ないので無理でしょう。
- 5 名前: 浦に〜と
投稿日: 2001/3/12(月) 03:54:41
- 保存状態に関する話題が出てきたので一言。
世界遺産は保存状態が良好であるという点では、他の文化財より格が上だとは言えるかもしれませんね。そういった保存状態の良い部分や、世界遺産としての管理・維持・修復を見習って、各地にある文化財を同様に守ることも極めて重要です。世界遺産は保全の手本であるという役目も持っているのです。
- 6 名前: 収斂
投稿日: 2001/3/12(月) 04:33:30
- 最後に少しだけ金閣と西本願寺について私のつまらない感想を書かせてください。少し話題とずれてしまうかもしれませんが。
私は、(有名なものだけですが)今まで西日本を中心にどれくらいの寺院や神社を見て回ったか分かりません。そして悟ったことは、多分、自分がまだ若いからでしょうが、豪華で壮麗な建築は、決して悪いものではない、ということです。芸術は潤沢な資金があって初めて洗練されていきます。私が初めて金閣に行ったのは修学旅行でしたが、その時社会科の教諭が「こんな贅沢なもの造りおって」という風に説明されましたから、ただ単純に「すごい」と感じることが、あたかも間違っていることのような印象を持ちました。その後、金閣や西本願寺には大学時代に何回か行きましたが、多くの寺院建築を見慣れてくると、金閣の優美さに徐々に気付き始めました。金閣の豪華さも西本願寺の内部装飾の見事さも、当時一級の職人の力作です。そのことを私は礼賛したい。金閣は放火で焼失しましたが、復元は当時の最高技術を駆使して取り組みました。おそらく千年は持つでしょう。安っぽいものを量産するより、立派なものを大事に長く使う、そっちの方が私は美しい生き方に思えます。
今の日本は経済的にとても裕福です。そのことが多様な文化を生みつつあると感じることがあります。今はまだ誰も気付いていないような文化が芽生えつつあるような気がしています。若者の服装(頭髪や厚底ブーツのファッション)はもちろん、演劇、娯楽商品、漫画・イラスト、アニメのような映像技術、料理、生活スタイルまでもが発展多様化しつつあります。ですから後世の歴史家は、この時代を日本の芸術の爆発期、天平時代や安土桃山時代、元禄時代と並ぶ日本文化のルネサンス期と呼ぶかもしれないと感じることがあります。それはとりもなおさず人々が裕福だからできるのです。文化はただ平和であるだけでは醸成しない。これは世界に共通することですが、芸術はむしろスコレ−を持つ富裕層が創出していく気がします。ただ昔はそういうことができる人が少数の支配層だけに限られていた点で、それはそれで問題ですが、芸術・文化の質とは無関係です。それを同じ範疇で結び付けようとするから、先の教諭のような発言が生まれるのでしょう。私は資源の無駄遣いをするような遊びは断固慎むべきだと信じますし、食べ物などを粗末にしたりする、勿体無い行動はしてはいけないとはっきり言いたいのですが、それとは別の次元で、文化を洗練させるには多少の贅沢は必要不可欠と思います。金閣や西本願寺を見て、贅沢の象徴と感じる人がいるのは、その人個人の自由でしょうが、私はそういう文化財を見て感じることは、こんな資源の少ない日本で、よくここまで理想を実現したものだ、という純真な気持ちだけです。
- 7 名前: R大学某学生
投稿日: 2001/3/13(火) 17:53:46
- 沢山の応答、ありがとうございます。確かに問題は世界遺産そのもの
じゃなくて、それに対するメディア及び個人の捉え方ですよね。でも
世界遺産そのものについてもいくつかの不満点はあるんです。今回は
それを少し挙げたいと思います。前回の発言と被る部分もありますが。
僕は日本の観光地に興味があるので、だいたいの観光地は把握している
つもりだったのですが、なるほど保存状態の違いですか…。
確かに京都や奈良は戦災も被っていないし、ある程度の景観保護運動も
普及しているんですよね。しかし、他の場所は大抵、そこに住む人たち
に保護する気がなかったなんて思えないです。廃仏毀釈、戦災などの災い
を被ったばっかりに、現在の仕打ちと考えると、正直世界遺産というものが
理不尽にも思える部分もあるんですよね。でも、沖縄のグスクなどは戦災で
破壊されて、殆ど復元だけど登録されたことを考えると、まだ望みはあるの
かな、とも思います。
以前挙げた観光地は勿論、話題に上がっていたことを知っていて挙げました。
もっとも、とりたてて世界遺産にして欲しいという願望は特にないですけど。
でも、善光寺は宗派の壁を超え、全国から信仰があった寺としてはすごく貴重
だと思います。
本堂は檜皮葺きでは国内最大級ですし、何より大地震にも耐えることができた。
そして、今なお単独で年間500万以上の人が参拝しているという、極めて特異な
寺だと思います。熊野と同じで、宗派、身分の壁を超えて信仰され続けている
所が最大の売りだと思います。それでも微妙な所ですけど。
これが長野じゃなく、京都にあった場合、どうなるのでしょうか…。僕が言いたかった
不満要素の二つ目は、これなんです。京都でも伏見大社とか三十三間堂とか世界遺産
じゃないものが沢山ありますけど。近江の寺社は分散しているのが問題なんですよね。
これも集約されていたなら世界遺産登録済みだったのでしょうか?日枝大社や多賀大社
、湖東三山や竹生島の社寺など沢山ありますよね。奈良なんかもやはり
奈良市だけに集約されてしまった感がありますしね。これで吉野も登録されてしまったら
石上神宮や談山神社はどうなるのでしょうか…?
言ってしまえば、日本の社寺、文化財として登録してしまった方が
不公平もないような気がするんですが(とんでもない極論ですみません)
金閣について
鹿苑寺金閣は国宝ではない世界遺産として有名ですよね。でも、なぜ毎回毎回金箔を
張り替える必要があるのか、正直そう思いました。僕は小学校の修学旅行の時にも
訪れています。その時に比べて金箔が新しくなっていました。国宝であった頃の
金閣は一切金箔を張り替えていなかったらしいのです。それが年月の流れを象徴して
いたものだったのに、観光客(特に外国人)のイメージを尊重しているからでしょうか?
西本願寺は建て替え中だったので、正直工事現場でした。
以上の不満点を纏めると
1.世の中には外部からの影響で失われる理不尽な文化財も多い。
だが、それでも現在でも保存に務め、地域の誇りとして尊重
されているものも沢山あるから、その点も見直して欲しい。
2.地域を一括して評価する指定では、地域的な差別が生じる。その
文化を拠点にした場合、それは大抵国内には広がる。だが、その
拠点だけに残った建築だけが評価されるのは納得できない。
3.ここでは述べていませんが、地域に住む人たちの生活事情も
多少は考えて欲しい。
例:荻町の合掌造集落に住む人たち
古都、京都の市街地開発と景観保護の矛盾点
これが現時点での世界遺産での不満点ですね。3.はこれも長い論争
になりそうなので、別の機会にしたいと思います。
- 8 名前: 浦に〜と
投稿日: 2001/3/14(水) 19:27:02
- R大学某学生さんの言う3点について、私ながらの返答をさせて頂きます。
まず第一点。
>世の中には外部からの影響で失われる理不尽な文化財も多い。
>だが、それでも現在でも保存に務め、地域の誇りとして尊重
>されているものも沢山あるから、その点も見直して欲しい。
これは本当にその通りです。けれども見直すことは世界遺産に登録することではありません。この辺が、前回私が書いたことにも重なることで、すごいからとか珍しいからといって全部登録しては、世界遺産の意味が無いのです。その事が広く認識されれば、登録されていないからといってないがしろにされる事も少なくなるでしょう。
二点目。
>地域を一括して評価する指定では、地域的な差別が生じる。その
>文化を拠点にした場合、それは大抵国内には広がる。だが、その
>拠点だけに残った建築だけが評価されるのは納得できない。
これは、文化中心地であれば優れた文化財も多くなって、世界遺産の数も多くなるのは当然だ、ということでしょうか。そうだとすれば、日本が暫定リストに新たに加えた「平泉の文化遺産」は、日本中世初期の地方文化ということで、地域のバランスなどを考慮しても、極めて重要であると重います。
またこういった話は、文化的地理区分をどうやって区切ってみるかにもよるでしょう。中国・朝鮮・日本をまとめて「東アジア」と見るのか。あるいは日本は「日本」として見るのか。その区分け方によっても、どこが中心でどこが地方か変わってきてしまいます。
三点目。
>地域に住む人たちの生活事情も多少は考えて欲しい。
日本では観光公害、つまり知られすぎることの脅威が深刻です。海外の世界遺産も見ると、同じように深刻な観光公害に悩まされているところもありますし、地元が軽視されていることが問題になっている所もあります。この辺のことは「住民と鉄道会社対立から、マチュピチュ行きの列車が一時運休!」スレッドでも指摘されている通りです。
自然や文化を広く知ってもらい、国際理解を深めるのが世界遺産の役割であるのに、知られすぎて危機が迫っているというのは何とも皮肉ですよね。この問題の解決は、正直私もどうしたらいいか分かりません。時間をかけてゆっくりと、地元や国内外に世界遺産を理解してもらうしかないと思います。最も良いのが、まず地元が世界遺産としての重要性を認識すること。その上で、今後を長い目で見て考え、最も良い方法を模索することでしょう。私のような第三者が色々言っても説得力に欠ける部分もありましょうし、地元の人がどうするのかを決めるのが一番であるはずです。(勿論、そういった場合にも周辺の意見を聞き入れるべきです。地元だけで勝手に決めろ、というのではありません)。
復元に関しては「全体が復元ではなく、また確かな資料に基づく正確な復元であるなら、世界遺産に登録できる」と規定されています。