- 日本の古墳について
- 1 名前: 収斂
投稿日: 2001/5/5(土) 00:47:22
- 実際に古墳時代は3世紀前半の箸墓古墳周辺から、7世紀後半か8世紀前半までの500年ですが、本によっては3世紀後半からとみなし400年とも書かれています。しかし、それ以前に古墳がなかったのかというとそうでもなく、墳丘墓という古墳の前段階のようなものが弥生時代からあるわけで、古墳時代との明確な区分自体難しいのです。私は古墳時代は3世紀前半と見ています。古墳造営は実際には6世紀後半になるとほとんど造られなくなります。それは仏教の伝来が大きく影響しており、葬祭様式が変化したためでしょう。だから古墳が多く築造された時代は400年足らずです。
ところが現在までに確認されている古墳の数は、小さいものを入れると全国に約30万以上あると言われています。さらに開墾や整地で跡形もなく破壊されたものも考えれば、この倍はあったでしょう。これはものすごい数です。たった400年くらいの間に30万以上の古墳を造るなんて信じられません。単純に計算しても毎年750個築造したことになります。当時の日本の人口は、7世紀後半で400〜500万人ですから、4世紀はそれより少なかったはずです。その人口で、これだけ造れるとしたら、当然道具は鉄器か青銅器のような金属製の道具が普及していないと無理があります。たしかに当時日本からは鉄が採れず、朝鮮半島からの輸入でしたが、国内の鍛冶・冶金技術はかなり盛んだったはずです。少なくとも技術者は結構いたはずです。私が昔から疑問に思っていたのは、よく鏡や武器が出土すると、新聞・マスコミは「大陸から輸入したものだ」とか「朝鮮半島の渡来人が造った」とかいう論評があまりに多い気がします。しかし日本では弥生時代から剣や鏡、銅鐸が出土しているわけだし、古墳時代のこれだけ多い古墳を見ても、古墳時代には既に日本では鏡や剣を加工する技術があったと思うのです。
ですから私は、当時、一体何人くらいの渡来人が日本に来ていたのだろうかという点に興味があります。しかしそれを書いた文献は知りません。(多分私の調査不足でしょうが)
しかしこれはとても重要な指針のはずだと思うのです。それが判明しないと、出土したものが、どこまでが日本人が作ったもので、どれが大陸からの輸入品か決定できないはずだからです。確かに大陸から来たと思われるものは多く存在します。例えば、沖ノ島や壱岐・対馬のようなところから出たものは、朝鮮半島で出たものとそっくりのものがあります。藤ノ木古墳出土の馬具の装飾は、東アジアでも例がないくらい精巧なものです。こういったものは渡来したもの、渡来人が作ったものと考えてもおかしくない。しかし弥生時代の銅鐸、古墳時代の三角縁神獣鏡は大陸ではまだ発見されていません。(朝鮮半島南部からは小さい銅鐸みたいなものが出ていますが大きさが小さすぎます。直接的影響はないと思います)普通、常識的に考えれば、それは日本人が製作したからと考えるのが妥当と思うのです。
誤解が無いように言いますが、明らかに倭人以外の外国人が作ったものも少なくありません。長崎には韓国で世界遺産になった支石墓群が発見されています。ですからここに朝鮮系渡来人が住んでいたことは間違いありません。また吉野ヶ里遺跡の管玉の成分分析をした結果、中国製であること、発見された人骨の骨格が山東半島に近いこと等も判っており、おそらくこれらの人々は中国系渡来人でしょう。北陸一帯には、形式が朝鮮半島の古墳に近いものも見つかっています。しかしそういったものは多くはない。
このように渡来人が来ていたら、何か証拠を残すはずです。これは私の実験・研究でもポリシーでもあります。なんか反応が出たら、理由がきっとあるはずだし、変化がないとしたら、ない理由があるはずなのです。渡来人が来て、倭人を指導して鋳造技術を伝えたら、それ以外にも渡来人が来たという証拠が他にもきっと出土するはずなのです。しかしそういったものが古墳からは案外少ない。古墳から鏡が出たからといって、すぐそこに渡来人がいたかのような解説は強引ではないでしょうか。鏡や馬具のような副葬品くらいなら、古墳時代でも、既に専門に作る集団がいたと考える方がよほど合理的です。
- 2 名前: 収斂
投稿日: 2001/5/5(土) 00:55:27
- 明日香村の世界遺産的価値に言及してみます。
明日香村は日本で最初の寺院が建設された場所で、飛鳥寺の大仏は日本最古の仏像です。残念ながら火災(たしか鎌倉時代)で著しく損傷し、修復された今の形から当時の様子は判りませんが、しかし貴重な文化財です。そしてもう一つ世界遺産級の場所であるのは、明日香村が百済・高句麗の亡命貴族が移り住んだ場所だからです。これは地元の古い言い伝えからもそうだし、実際それを裏付ける高松塚古墳、キトラ古墳が見つかりました。大和朝廷はこういった貴族に格別の恩情を与え、丁重に歓待したのですが、そういう善行を積むと、こうして美しい壁画古墳が残り、1300年後、一級の資料として多くの日本人に感動を与えてくれるものなのですね。美談です。
私は以前から、きっと全国のどこかに、キトラ古墳や高松塚古墳のような壁画古墳がまだ幾つかあると信じています。それはもし渡来人、特に高句麗系の渡来人が日本に来て、そこで亡くなったとしたら、当然、四神図を持った古墳のスタイルで埋葬されたであろうと思うからです。逆に壁画古墳が無いとしたら、そういった渡来人があまり来ていなかったことになると思うのです。それは考えられない。古墳時代の400年を通して、明日香以外に渡来人が埋葬されなかったとは思えないからです。
(ただ実際弥生時代はおろか古墳時代でも、なぜかほとんど漢字が見つかっていないので、渡来人は意外に少なかった気もするのです)
(補足)
百済・高句麗の貴族はその後、一部が宮崎の西都原古墳群の近くに移り住んだ言い伝えがあり、その風習が宮崎にはまだ残っているそうです。ですから宮崎の西都市は要チェックです。(西都原古墳群からは家型埴輪でいいのが出土しましたが、今のところそれほどいいものは出ていないのが残念です。)
- 3 名前: 収斂
投稿日: 2001/5/5(土) 01:01:59
- (天皇陵と陵墓参考地について)
天皇陵、または陵墓参考地は全国に約900あります。そのうち古墳は約80ですが、大きさでみれば、前方後円墳の上位30基の内25基が該当しており、調査できません。
主な宮内庁指定の天皇陵を例示しておきます。
崇神天皇陵(第10代)行燈山古墳(奈良県)、
垂仁天皇陵(第11代)宝来山古墳(奈良県)、
景行天皇陵(第12代)渋谷向山古墳(奈良県)、
成務天皇陵(第13代)佐紀石塚古墳(奈良県)、
仲哀天皇陵(第14代)岡ミンザイ古墳(大阪府)、
応神天皇陵(第15代)誉田御廟山古墳(大阪府)、
仁徳天皇陵(第16代)大山(大仙)古墳(大阪府)、
履中天皇陵(第17代)上石津ミサンザイ古墳(大阪府)、
反正天皇陵(第18代)田出井山古墳(大阪府)、
允恭天皇陵(第19代)市ノ山古墳(大阪府)、
雄略天皇陵(第21代)島泉丸山古墳(大阪府)、
清寧天皇陵(第22代)白髪山古墳(大阪府)、
仁賢天皇陵(第24代)ボケ山古墳(大阪府)、
継体天皇陵(第26代)太田茶臼山古墳(大阪府)、
安閑天皇陵(第27代)古市城山古墳(大阪府)、
宣化天皇陵(第28代)鳥屋ミサンザイ古墳(奈良県)、
欽明天皇陵(第29代)梅山古墳(奈良県)、
敏達天皇陵(第30代)太子西山古墳(大阪府)、
用明天皇陵(第31代)春日向山古墳(大阪府)、
推古天皇陵(第33代)山田高塚古墳(大阪府)、
孝徳天皇陵(第36代)上ノ山古墳(大阪府)、
天武・持統天皇合葬陵(第40、41代)野口王墓古墳(奈良県)、
称徳天皇陵(第48代)佐紀高塚古墳(奈良)、
平城天皇陵(第51代)市庭古墳(奈良県)
私は、こういった天皇陵をすぐに発掘しなくてもいいと考えています。日本の考古学術調査は、ほとんどが開発前の記録調査で費やされ、人手不足なのだそうです。
最後に、天皇陵にもかかわらず、こういった掲載をしたことの不敬を宮内庁の方々に深く陳謝いたします。決して興味本位で発掘を請願するものではありません。
- 4 名前: 浦に〜と
投稿日: 2001/5/12(土) 12:45:25
- 古墳についての資料や見解などの投稿、ありがとうございました。
私は全然詳しくない分野なので、ふむふむと頷くだけですけど(^^;西暦200年代から古墳時代がはじまっていたという推測は面白いですね。
それから破壊された古墳というと、東京とその近郊ではかなり多いと思います。昭和中期になっても、有名な物を破壊した例もありますからね。