NO.14
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詩の授業〜 すいっちょ |
1.はじめに
虫や小動物を扱った詩は、意外に多い。
「すいっちょ」とは、俗にバッタの仲間で、ウマオイムシの別名である。
秋の色濃い時期に、本教材で「分析批評」を試み、授業を行う。
本教材は、向山型「分析批評」の授業における「子供が夢中になってやまない魅力的な国語の授業」として、多くのTOSS実践家によって追試されている詩教材の一つである。
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2.指導にあたって
①一つの作品を教材として扱うとき、まず、すべきこと、それは、素材としての解釈である。
時に、作品はもとより、その詩を生み出した背景や作者の人物像を知ることは、その作品に込められた奥深い魅力を垣間見る手がかりとなる。以下にそれを簡単に記す。
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どこにでもありそうな、しかし今では忘れ去られてしまったような美しい季節の一情景に、子供たちは、どう感じるものがあるのだろうか。
是非とも、「影絵」のような優しく情感のある秋の詩に浸らせ、文芸としての詩の素晴らしさを味わわせたいところである。
②授業によどみを作らぬように、心地良いテンポで進める。
③スモール・ステップで易から難へ問いかけ、言葉を根拠とした展開を試みる。
④教師の解は、しっかりもたねばならない。
しかし、状況によっては、教師の解をあえて明かさず、授業後も子供たちの「?」を増幅していくような気持ち(もっと知りたい、読んでみたい)を持たせるようにする。
3.授業の流れ
以下、3年生を対象にした授業記録である。印刷した教材詩のプリントを配布後、板書。
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一回範読後の指示。
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全員読み終えたのを確認して、テンポ良く問う。
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C「鈴木 敏史です。」T「よろしい!花丸しなさい。」
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列指名。C「四連です。」T「よろしい!これまた花丸!」
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3分後、挙手にて人数を確認する。
春2人、夏13人、秋17人、冬1人
「意見のある人どうぞ。」と言うと、指名なし発言で以下のような意見が出た。
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意見交換から、春と冬は取り下げられた。夏派と秋派に分かれた。
断定はできないが、「すいっちょ」「明るい月」「かげ絵」から秋と私はイメージする。
はっきりとした結論が出なかったので、敢えて深入りは避けて次に進んだ。
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解は、「(小さな)先客」と「(みどりの)歌い手」である。
1つだけ書いてきた子には、黙って△を。しっかり、抜きだし書きをしていない子には、×を。初めから、2つきちんと書いて持ってきた子には「さすが!」と言って花丸をする。
こういう、細かいことをきちんと書く子供に普段から育てていかねばならない。「大体合っている」などという教師の甘いチェックが、実は、子供を駄目にしているのである。
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次の問いの布石である。
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3分後、○か×を挙手させて人数を数える。
○・・・・6人 ×・・・・27人
それぞれの立場から自由に意見を述べ合う。
| (○派) ・月が出ているから、下駄にすいっちょがいることが分かる。 ・2連に「明るい月がのぼります」と書いてある。「のぼります」ということは、少しだけど月が出ているから言う言葉だ。 (×派) ・この一連だけでは、月が出ているとは言えない。 ・「庭へ出るのは待ちましょう」だから庭に出ていない。だから、月を見ていないことになる。 ・もし、月が見えていたとすると、2連は「月がのぼっています」と書いているはず。 |
決定的な根拠がここでは見えず、論争になる中心となる部分ではないので、決着を付けずに敢えて「?」を残して次に進めた。
なお、私自身は、この発問の解は、この場合どちらでも考えられると思う。一方的に教師の解を押しつけるような、誤った解釈をしてはいけない。決定的な根拠がなければ本来ならば、「分からない」という解があっていい。
この発問も追試だったが、次のような問いの方が自然だったかもしれない。
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要は、この詩の情景がイメージ化されれば、それで良しとする。
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ここで中心発問を投げかける。
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時間は5分取った。その後、挙手させ人数を板書し、討論させる。
できることならば、教師側から選択枝を与えること無く、子供たちによる検討そして論争を生む展開を期待する。
討論の授業は、目指せば目指すほど、憧れれば憧れるほど、口で言うほど容易ではないことに気付かせられる。
入門期の段階では、AかBの対立を意図的に組めば、ある程度は討論的授業の形には成り得る。
A・・・8人、B・・・21人、C・・・4人
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・逃げていかないと、下駄を履けない。 ・最後の行に「すいっちょ すいっちょ」とあるが、これは、鳴き声 ・「そっと しゃがんで」というところは、すいっちょに気付かれな |
それぞれの立場からの考えは、一応発言できる。 それぞれの意見に対していくつかの反論もできた。しかし、自分の考えを話すことに留まり、論破することができないでいる。
即ち、何故自分はその考えを支持するのか、何故自分とは違う考えはおかしいのか、そこの指摘や相手の非を突いていき、論を崩すことができなければ、討論には成り得ないのだ。
ただの意見の喋り合いといった拙い授業が、教師によって展開されるだけのものに成り下がってしまうのだ。
また、C派の意見が出てくるあたりにも、論点を絞り切れないでいる状況が伺える。
ここでも結論を見ず、時間的にもゆとりがなかったので「何を待っているんでしょうね。」と告げて、授業を終えた。
ここでの私の解は、Bである。状況からして、Aでも絶対的に間違いだと言える根拠はないが、話し手である作者は、じっと其の場に「そっとしゃがんで」待っていたのである。
ただ逃げるのを待つのであれば、「先客」「歌い手」という言葉の魅力は半減する。
美しい月に照らされたの秋の夜長に、けなげに鳴くすいっちょ。
そこに作者は、そこはかとない愛着を感じていると思われるのである。
来たる季節にそなえて、懸命に羽を振るわせ鳴く秋の虫がせつなくもあり、優しくもある「歌」に聞こえたとしたら、大げさだろうか。
したがって、情景を想像するに、AよりBと私自身は、とりたい。
4.おわりに
論争と言えるほどにもならなかったが、分析批評の討論的授業は、少々体験できたように思える。もちろん、これが「分析批評の授業」だなどと人様に口を開いて言える代物ではない。
序文に自分勝手に定義したものすら、遥か彼方に存在する授業として目に映る。
しかしながら、わずかな手応えを感じたのは確かである。子供たちが詩の中の言葉を検討し、情景のイメージを広げていくことができたからである。
牛歩の如く、自分なりの実践を積み重ねていきたい。