’99.3.2

一文の授業〜「トンネルをぬけると・・・」
 
                           
○ はじめに
 向山氏は言う。

 国語の授業ですから、できるだけそれらしくありたいと思います。
 国語の授業らしくありたいと思います。
 国語の授業らしくありたいというのは、あくまで文字や言葉にこだわるということです。
                 「国語の授業が楽しくなる」(明治図書)より
 
 この言葉が示す国語の授業とは何か。
 ズバリ分析批評の授業である。
 分析批評については、幾たびも論じられ、その優れた指導法はもはや誰もが認めているところである。
 しかし、認めているということと実際に実践しているということは違う。
 また、実践しているということと実践できるということは全く違う。
 天と地ほど違う。
 それだけ分かったつもりの「知ったかぶり」は危うい。
 思えば、私自身国語の授業観が激変したのは、佐渡で向山氏の授業を初めて目にしてからだった。教材は「雑草の歌」。
 ひっくり返った。とにかく仰天した。
「なんて速い授業だ。」「しかし、・・・・なんと時間がゆったり流れていくんだ。」
 第一印象は、まさに衝撃的なそれだった。
 速いのにゆったりしている。まさに今、一世風靡している「向山型算数」そのもののテンポであった。
 その授業は、分析批評の入門(向山氏談)であった。
 子供たちに問題作りをさせ、テンポ良く答えさせていく。
 教材詩の一字一字に着目させ、言葉を検討していく。
 これだと紛れもなく子供たちは国語を好きになるであろう。
 知的な思考をフル回転させられるであろう。
 そう直感したのを覚えている。
 
 さて、分析批評に話をもどす。
 向山氏の実践で有名なのは数多くあれど、実は一文字・一文の授業がその基本になっていることに気づく。
 向山氏も国語の力、言葉の力を付けるには、一文の授業をすべきだと言っている。
 これは、実際に実践または追試してみれば分かることだが、一文で一時間や二時間三時間と子供たちはあきることなく、知的に検討や討論をするのである。
 これは、考えてみるに実にすごいことである。
 私も何度か試みたが、これほど知的に発言し思考し討論する子供たちの姿をそのたびごとに目のあたりにしてきた。
 なぜ、これほどまでに一文の授業が子供を引きつけ教師を引きつけてやまない授業となりうるのか、今後さらに探っていきたいところである。
 さて、ここで紹介するのは、これも有名な向山氏の一文の授業である。
 教材文は、あまりにも有名な川端康成の「雪国」冒頭の一文である。
 「国境の長い〜」は省いてある。

 トンネルをぬけるとそこは雪国だった。
 
 これで、最低一時間はかかる。一時間の授業を充分なほどに組み立てることができるのである。
 実践にあたっては、遠藤信春氏の修正追試という形で授業を組み立てた。
(「教育技術の法則化9〜誰でもできる詩文の授業」1986・P66〜67明治図書より)
 
 対象は3年生。3年生にこの難教材とも思える一文を検討する授業ができるのか、そういう思いで授業してみた。
 以下、授業の記録である。
 
○ 授業記録
 以下の教材文をだまって板書する。

 トンネルをぬけるとそこは雪国だった。 
 
 

指示1 ノートにこの文をきれいに写しなさい。 
 
 半数ほど書き終えたところで、次の指示。

指示2 起立して三回音読しなさい。どうぞ。 
 
 全員読み終えたあと、次の問いかけをする。

発問1 ノートに①と書きなさい。主語は何ですか。主語を①の下に書きなさい。 
 
 既習事項であるが、ここはきっちりと押さえておく。
 列指名で尋ねていく。10人列である。
 6名が「そこは」と答えた。

指示3 主語は「そこは」です。合っていた人、赤鉛筆で丸しなさい。間違った人、分からなかった人は書き直しなさい。 
 
 間髪入れず、次の問い。

発問2 ノートに②と書きなさい。述語はどれでしょう。同じように②の下に書きなさい。 
 
 これも列指名。「雪国だった。」9名。「分かりません。」1名。

指示4 その通り。述語は「雪国だった。」です。丸しなさい。
 
 

説明1 「そこは」「雪国だった。」という訳ですね。「雪国」というのは、雪が多く降る地方、土地のことを言うのですね。秋田だとか青森、北海道なんかがそうです。  
 
 ※正しくは「雪国」というのは文学用語である。

発問3 さて、この文をもし区切って読むとしたら、どこに区切りを入れて読みますか。自分が視写した文に区切りの横線を入れて、読む練習をしてみなさい。
線は一つでなくてもかまいません。はい、どうぞ。 
 
 早い子で2分後に読み始めた。机間巡視してノートを点検する。
 いくつかの考えを出させるために、頭に触れて指名予告をした。
 4分後、4人に発表させた。

指示5 先生に頭を触られた人立ってごらん。
どこで区切りますか。区切ったところを大げさなくらいあけて文を読んでください。
 
 以下の4通りである。同じ区切り方をした子を同時に挙手させた。

Aトンネルを/ぬけると/そこは/雪国だった・・・・・1人
Bトンネルをぬけると/そこは/雪国だった・・・・・13人
Cトンネルをぬけるとそこは/雪国だった・・・・・・15人
Dトンネルを/ぬけるとそこは/雪国だった・・・・・・2人
 
 
 

説明2 A〜Dどれも「、」がついていいと思われますが、ここの中にある一つだけ日本人が古くから好む区切り方があります。その区切り方は、「あるもの」と同じなんです。(ここはやっぱり3年生。何のことなのか分からないと言った表情。きょとんとしている。)みなさんは、俳句って知っていますか。(「知ってる。」と数名。)
俳句って5・7・5で分けるんです。とても日本人には心地よい親しみやすい分かれ方、読み方なんですよ。
A〜Dどの分け方でしょうね。
 
 以上のことだけ言った。というより言い過ぎたかも知れない。
 あるいは、この部分は必要ない問いかけだったのかも知れない。
 高学年であれば、どの読み方を支持するか検討させることも可能であろう。
 それでも、5・7・5の分け方をしたのが2人いたのは、ある意味驚きであった。
 「すごい分け方見つけたね。」と言って、その子供たちを誉めた。
 さて、次に急ぐことにした。

発問4 ひとつ聞きたいことがあります。ノートに③と書きなさい。この文にトンネルが出ています。このトンネルは、長いですか?それとも短いですか?
どちらかをノートに書いて、わけも一所懸命考えなさい。証拠も見つけたら大したもんです。天才です。
 
 直後、「えっー。」「わかんないよ。」「そんなの書いてないもん。」の声。
 にこにこして聞き流す。
 子供たち、作業の様子から見てかなり悩んでいる様子である。
 それでも、どちらか立場を決めるよう促しながら、机間巡視した。
 4分後、中断させ、挙手にて人数分布をみる。

 長い・・・・・30人、短い・・・・・・1人
 
 圧倒的に「長い」派が多かった。
 まずは、「短い」と答えた子にそのわけを尋ねた。

 「わけは、まだ分かりません。なんとなくです。」
 
 根拠がつかめないでいるのだ。
 次に多数の「長い」派に指名なし発言で理由を言わせた。

・トンネルに入る前は、雪国ではないと言うことですから、短いんだったら、そんなにすぐに景色は変わるはずはないと思ったからです。
・短かったら、トンネルをぬけてすぐ雪国になるはずないから長いと思いました。
・「トンネルをぬけると」と書いているから、短いなら「ぬけると」でなく「通ると」と書いていると思ったからです。
・「そこは」という言葉があるからです。トンネルに入る前は、雪国でなかったと思うからです。
 
 以上の意見が出された。
 ここでひとまず教師の解を告げた。

説明3 難しいね。先生は、このトンネルは「長い」と考えます。「長い」「短い」と簡単に答えが出せるようなものではないかもしれませんが、入口から入ってすぐ出口から出るようなそんな短いトンネルとは考えにくいのです。
証拠は、たった一文字「は」です。
「そこは」の「は」です。「は」にはいろんな意味があります。あとで辞書で調べてみてください。
もう一つ、「だった」というのも証拠としてあげてもいいでしょう。
「だ」ではないのです。「だった」です。
「そこは」・・・「その別のところは」、「だった」・・・「気がついたらそうだった」
どうでしょう。時間の流れを感じます。ちょっとした時間の長さを感じます。
 
 ここは、非常に難しい。
 短くはないだろうと、結果のように多くの子供は予測するであろう。
 しかし、証拠を見つける、根拠を見いだして断定するということは、容易なことではない。ましてや3年生である。
 分析批評の授業を受けたこともない子供たちなら、高学年でさえ分からないであろう。
 私もまた、再度より深い教材解釈をしなければと反省させられた場面であった。
 最後の発問である。

発問5 話し手は、どこにいるのでしょう。
まず、先生と同じようにノートに絵を描きましょう。(簡単な線路とトンネルの図) 
トンネルの中か、入口か出口か?電車は自分で好きなところに描きなさい。
いいですか。もう一度言いますよ。
「トンネルをぬけるとそこは雪国だった」とお話ししている人、話し手はどこにいるのかと言うことです。絵の中に大きな目玉を書き入れなさい。ただし、話し手は、電車に乗っているものとします。
 
 ここでは、話者は電車に乗っていると限定させた。
そうでないと、想起の文ともとれるし、話者(作者)は別な土地から思い出して書いているともとれるからだ。
 できた子、書けた子からノートを持ってこさせた。
 「よく書けたね。」「よく考えたなぁ。」「どうしてかな。」などと言葉をかけながら、全員のノートに○を付けてやった。
 訳の書けている子には二重丸を付けた。
 これはと思うものを板書させた。以下の3つである。(絵省略)

A目玉が出口から出ているか出口に近いもの・・・・・22人
Bトンネルの中・・・・・5人
C入口近く・・・・・3人
 
 人数分布を確認したあと、書いてくれた子にそのわけを発表させた。

A「ぬけると」と書いているので「ぬけると」ということは、もうトンネルを出ていることだからです。
B「ぬけると」ではなく「出たら」と書いていないからです。
C「ぬけると」ということは、ぬける前のことだから、これからトンネルに入るよってことだと思ったからです。
 
 

指示6 同じ意見、違う意見があったら、ご自由にどうぞ。
討論に入っていってもいいです。
 
 

・「ぬけると」は「〜したら」ということだからAです。
・「ぬけると」ということは、まだ通りぬけていないということではないですか。
・それでは、なんで「ぬける」という言葉を使っているんですか。
・だから「ぬいた」「ぬけた」と書いていないから「ぬける」だけだと通り過ぎたとは言えないと思ったからです。
・もし、ぬけたのなら「ぬけたら」と書いていればいいし、「ぬけると」と書かないはずだと思うのでBだと思います。
・トンネルを通りぬけないと雪国だと言うことは分からないからAです。
・長いトンネルなんだから、入ったばかりの所では雪国なんて分かるわけないんだからCはおかしい。
・トンネルを通り過ぎなければ雪国だと分からないというのには賛成です。
・反対。見えなくても、完全に出ていなくても、出口の近くであれば雪国の感じだってするんじゃないんですか。
・Cはトンネルに入ったばかりだし、Bはトンネルの中ですから真っ暗ですよ。
・Bだって、雪は白いからまぶしさが見えてくると思います。
・長いトンネルだから見えません。
・真ん中にいると、ぬけていません。だからその考えは違います。
 
 ここで意見がとぎれた。

説明3 みなさんの意見では、話し手は「出口のところにいる」「出口から離れたところにいる」この二つに大きく分かれているようです。
さて、どちらなのでしょう。 
 
 もう一度挙手させた。

A派(出口に近いところ)・・・・28人、B(出口から離れたところ)・・・・3人
 
 時間残り1分わずか。
 ここで残念ながらうち切った。

説明4 どちらでしょう。注目する言葉は、先生はこれだと考えます。(「と」を黄色チョークで囲む)それと「だった」です。(同様に「だった」を黄色チョークで囲む)
「と」には、「〜すれば」「〜すると」という意味もあれば、「〜したけっか」「〜したそのあとに」という意味もあります。どちらを取るかで全く違います。
辞書に書いてあります。
もう一つ、だめ押しとして、「だった」とあります。
ハッキリ言っている。
これは「わかった」「そうだった」と気付いたというわけです。
だとしたら正しいのは、自ずと分かるだろうと思います。
授業を終わります。
 
 
○ おわりに
 最後は、あえてハッキリとした解は告げなかった。
 以上、この授業が今の力量では精一杯ぎりぎりであった。
 それでも授業後、熱心に「と」を辞書でひもとく子どもも数名いた。
 たった一文であったが、3年生なりに子どもたちは言葉を一時間検討したのである。
 まだまだ稚拙ではあるが、言葉に着目する国語の授業、分析批評は、こうも子どもたちを熱中させ知的な思考を促すものだと改めて感じた授業であった。
 また、予定ではトンネルと雪国を対比する発問も考えてはいたのだが、時間不足と子どもの思考の流れから省いた。
 だが、これが結果的には良かったかもしれない。
 分析批評の授業は、一学年に1つのものさしで充分なのかもしれない。
 欲張りすぎると消化不良を起こす。
 まずは、一つずつ分析のものさしを習得させていくのが肝要と言える。



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