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19世紀のハンガリー
〜1848革命〜

 1848革命
〜大まかな流れ〜
1848年2月にフランスで王政を転覆させる革命が起り、共和国となった。それがきっか
けになり、ハプスブルグ帝国内で諸事件が起こる。立憲的自由主義の体制下で政治
的民族統一を達成しようとする人々が沸き立ち、その中で特にハンガリーではコシュ
ート・ラヨシュが1848年3月3日にポジョニで行われていた国会で、ハプスブルグ帝国
の立憲的改革を求める演説を行った。それは全帝国に影響を与え、ウィーンでの3月
13日の大デモを引き起こした。そして、ペストでは「青年ハンガリー」が蜂起を起こし、
その後革命委員会は皇帝フェルディナントに、ハンガリーの革命派で組閣した内閣を
承認させた。4月には改革の立法を起こし、これが「四月法令」として認められた。だが
これは長く続かず、新皇帝フランツ・ヨーゼフはロシアの支援を仰ぎ、1849年8月13日
にヴィラゴシュにてハンガリー軍は降伏せざるを得ない状況になった。
 
 
 
 
 〜革命の流れ〜
 
1845〜46年 
  反政府派中央委員会が設立される
1848年   
 
3月3日 コシュートがコシュートはパリで2月革命が起きた事をきっかけにメッテルニヒ体制を鋭く批判し、ハンガリーが完全に独立する事そしてハプスブルクの改革を求める演説を議会でする。
1848年 3月15日  ペシュトでペテゥーフィを初めとする知識人達が集会を開く。
1848年 3月31日 皇帝フェルディナント5世はハンガリーの独立内閣を認める
1848年 4月7日 バチャーニ・ラヨシュ内閣が組閣される。
1848年 9月10日  以後に政策の失敗を認め、解散。
1848年 9月 ヨシップ・イエラチッチが率いる南スラヴ人がコシュートの勢力を打倒するためにハンガリー に進攻。
1848年 10月6日 オーストリアがハンガリーに宣戦布告 
1848年 10月13日 ハンガリー議会解散令が出される。
1849年 1月 オーストリア軍がブダペシュトを占領。
1849年 4月13日 コシュートが総裁となり、デブレツェンで独立共和国宣言をする。
1849年 8月13日 ロシア軍が介入し、敗れる。
 
 〜バチャーニ内閣〜
 
セーチェニを代表する穏健派とコシュートを代表とする急進派の連合内閣の中で
蔵相のコシュートが実権を握った
 
内閣表
1848年4月7日組閣
                                            内相         セメレ・ベルタラン
                                            労働・運輸   セーチェニ・イシュトヴァン
                                            法相          デアーク ・フェレンツェ
                                            国王関係担当エステルハージ・フェレンツェ
                                            宗教 教育    エトヴェシュ・ヨーゼフ
                                            蔵相          コシュート・ラヨシュ
                                            農業 通商    クラウザル・ガーボル
                                            国防省       メーサーロシュ・ラザール
 
〜議会の場所の移動〜
1848年 3月 ポジョニ
1848年 10月 ペシュト
1848年 12月〜 デブレツェン
1849年 1月まで デブレツェン
1849年 6月 ペシュト
1849年 6月 セゲド
1849年 8月 セレグ
1849年 8月 アラド
 
 〜1848年革命の敗因〜
1 諸民族特にクロアチア人に平等の権利を与えなかった事
2 コシュートとアルトゥール・ゲルゲイが反目していた事
3 小市民を軽視したために人心が離れていった
4 ロシアの干渉
〜それぞれの政治家のハプスブルグ帝国に対する考え〜
コシュート・ラヨシュ  彼の民族の自覚の強まりは他民族との共存と言う
考えには進まなかった。彼はハンガリーの完全な独立を願い、1867年の
妥協、「アウスグライヒ」を彼は決してみとめずに、軽蔑し続けていた。
セーチェニ・イシュトヴァン コシュートとは逆に、他民族に寛容で、ハ
ンガリーはハプスブルグ帝国と結びついてのみ繁栄できると考えていた
デアーク・フェレンツ 穏健派であり、1849年に革命が失敗した後はハプ
スブルグ帝国と妥協する方向で活動をしていた。
アンドラーシ・ジュラ 独立戦争時はコシュートの支援をしていたが、革
命が失敗に終ってからはデアークを支持。妥協案を推進した。

  19世紀のナショナリズム
19世紀のナショナリズムはもともとは18世紀のフランス革命から始ったと言われ、
各民族の民族意識が広まるにつれてロマン主義の影響も受けるようになり、民族
エリートの文化的な運動として発達して行った。それはやがてハプスブルグ領内
にも広がり、チェコ人、ハンガリー人は次第に中央集権政策に反発するようになっ
て行った。

当時のハプスブルグ帝国は全てのヨーロッパ文明が交じり合っていたが為に、そ
れぞれの民族が共存し合って行けるような環境があった。が、徐々に自民族の自
覚が高まるにつれ、中には自民族だけを独立させる国家を作ろうとする人物が改
革を行うようになった。


 
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