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19世紀の英雄達
19世紀はハンガリーの民族主義運動が盛んになった時期。当時ハプスブルグ帝国に
支配されていたが、この人物達はそれぞれのやりかたでハンガリーの文化や政治を
独立又は復興させようとした。
コシュート・ラヨシュ(Kossuth・Lajos)1802〜1894
略歴
小貴族。1802年、ハンガリー北東部のゼンプレーン県に生まれる。初め弁護士、後 にハンガリー最初の
政治新聞、「ペシュト新報」の編集者を経て何度か身分制議会の 議員を勤め、そこで内乱罪で逮捕される。
その後国会議員に当選、1848年ポジョニ (今のスロヴァキアのプラチスラヴァ)の国会で独立宣言をする。
一時期蔵相〜執政 (摂政)として事実上の支配者になるが、1849年にこの革命は失敗し、トルコに亡命。
1862年ドナウ連邦案を発表。1894年亡命先のイタリアで没した。
小地主を代表する急進的民主主義者で、オーストリアからの独立を熱望した。
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1824〜1832 |
ゼンプレーン県の役人 |
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1832〜1836 |
身分制議会委員 |
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1832〜1836 |
「国会通信」発行 |
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1836〜1837 |
「地方自治体通信」発行 |
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1837〜1840 |
上記2誌上で社会改革を説いたため、投獄される |
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1841〜1844 |
「ペシュト新報」発行 |
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1847 |
下院議員となる。 |
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1848 |
3月3日にハプスブルグからの開放を求める演説を行う。 |
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1849 |
4月14日臨時国家元首・執政。 |
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1851〜1852 |
アメリカ、ロンドンを訪問。 |
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1861 |
イタリアへ渡る。 |
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1862 |
ドナウ連邦案を提議 |
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1865〜1894 |
トリノに定住。 |
コシュートの血筋
コシュートは母がスロヴァキア人で、彼の家系の殆どがスロヴァキアの血筋だったと言う
コシュートの亡命
コシュートは独立戦争で主導権を握っていたが、アルトゥール・ゲルゲイ将軍との対立が
目立つようになる。
1849年7月31日シギショアラで敗走し、1849年8月9日にはティミショアラでゲルゲイに全権を譲り、亡命した。
コシュートの後継者
フェレンツ・コシュート。コシュートの息子。マジャール独立党党首。
1905年のハンガリー選挙でティサ・イシュトヴァンに変わって首相に当選する。
コシュート語録
「時の弛みない前進に直面している今、古いものにしがみつくことは、ドナウ川に流れを止めろと言ったり、上流に
向かって流れるように要求する事と同じく不可能でばかげた事だ.」
セーチェニ・イシュトヴァン(Szechenyi・Istvan)1791〜1860
伯爵。軽騎兵将校。ナポレオン戦争に従軍。その後外国を見分し、イギリスの政治に 引かれた。その後
政界入りし、産業と文化の発展に基づく穏健な改革を目指した。ま た、鎖橋、セーチェニ図書館などの
建設を発案。ハンガリー文化の復興に力を尽くし、 「ハンガリー近代の父」「最大のハンガリー人」
と言われた。コシュートのような、ハプス ブルグからの完全な独立は危険だと説くが聞き入れられずに
1848年の革命を迎え、 バチャーニ内閣の交通相となる。1860年に自殺するが、その後もハンガリーの
人々か ら尊厳を持って親しまれた。
自由主義的貴族を代表し、斬新的改革の立場であった。
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1815〜25 |
イギリス・フランス・イタリアなどを訪れる |
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1825 |
政界入りする |
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1830〜 |
穏健な改革指導を始める |
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1830 |
「信用」発刊 |
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1831 |
「光」発刊 |
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1833 |
「状況」発刊 |
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1841 |
「東方の民」でコシュートの過激な改革論を批判 |
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1843 |
交通相になる。9月、精神障害を起こす |
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1859 |
イギリスで密かに小刷誌を発行。その責任を問われて自殺。 |
セーチェニの努力
ハンガリー語の文学が作られ、民族博物館・アカデミーなどが設立された。
鎖橋
セーチェニ・イシュトヴァンの働きかけによって、イギリス人のクラーク・アダムの
設計で建設された。
セーチェニ語録
「哀れな小さな祖国よ、お前はなんと薄汚れているのだ」
ペテーフィ・シャンドル(Petofy・Sandor) 1923〜1949
キシュケーレシュで肉やの息子に生まれる。詩人。自由主義者で1848年3月15日の市民蜂起に際し
自作の詩を朗読、民族の独立と自由を目指して独立戦争に参加したが、シェグシュバール(現在のルー
マニアのシギショアラ)で戦死する。