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マイヤーリンク事件を考える
 
マイヤーリンク事件
と言えば、「うたかたの恋」で知られるように皇太子ルドルフとマリー・ヴェッツェラ男爵
令嬢との心中事件とおもわれていたが、最近違ってきた。

当時のオーストリア=ハンガリー二重 帝国は親ドイツ政策を取っていたが、それが危
険すぎると感じた皇太子は、大公ヨハン・ サルヴァドルと共にロシアに接近。しかも、
ハプスブルグ帝国を解体してドナウ帝国を作るべきだと説き、ハンガリーの王になろう
としていた。それを危険と感じた皇帝は、刺客を放って皇太子を暗殺した、と言うような
説が有力となっている。

皇太子ルドルフ

1956〜1889年。文化に対する関心を持ち、敏感な性格であったという。ハンガリーの
詩人、ヨーカイ・モールに「王国を治めるに召された頭脳・精神がこれほど懸命で情熱
であった事はなく、皇太子がこれほどまでに絶対的な愛で祖国を愛した事もない」とル
ドルフを絶賛した。

民族主義に理解が有り、ハンガリー・スロヴァキア・南スラヴ人達の帝国内の民族の
共存共栄を図ろうとしていたのでアウグスライヒ体制を否定。帝国隔週を独立させて
連邦制を築き、大ドナウ連邦帝国の構想を夢見ていた。

マイヤーリンク事件
1889年1月29日〜30日オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子ルドルフと愛人のマ
リー・ヴェッツェラ男爵令嬢がウィーン郊外のマイヤーリンクの狩猟小屋で死んでい
るのが発見され、ヨーロッパ中が動揺した。

事件の関する書類はすべて破棄されたが、1983年3月11日、皇帝カールの妻チタ
皇后は彼は政治的な暗殺であるという事を証言した。

暗殺されたと言える要素
●チタ皇后は、「ルドルフが父に反逆する陰謀に加わるのを拒んでいた」と言う。

●彼は側近のドン=ミゲル大公に「私は殺される。私は知り過ぎている」と漏らしていた
と言う。

●革新的・自由主義な仲間や地下組織との接触が多かった。ハンガリーの野党と秘密
に接触していた。

事件の推測
以上の事を考慮してみると、マイヤーリンク事件に対して以下の説が考えられる。

★管理人の勝手な推測です★
 
マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢とのかなわぬ恋の果ての心中。
彼は自由主義者や地下組織の仲間と付き合いが有り、皇帝フランツ・ヨーゼフに謀反を企ててハンガリーの王座を狙うようになった。そしてそれを実行しようとしていたが、それに感付いた皇帝が刺客を放って彼を暗殺した。または、 外務大臣やヨハンがルドルフに今のような親ドイツ政策がキケンであり新ロシア政策をとり、フランスと強要した方が良いと言う考えを提案。ルドルフは皇帝を退位させて自分が帝位につき、その政策を実行しようとしたが感付いた皇帝が刺客を放って彼を暗殺した。
皇帝との政策の違いに口論となった末に皇太子の位を剥奪すると言われ、意気消沈した彼は愛人と共に自殺した。
ヨハンがルドルフを帝位に付けて自分が 付き合う自由主義者等の考える政治を実行させようとしたが、肝心のルドルフが計画に反対、もしくは恐れたのでヨハン達が彼の口を塞ぐために殺した。
 

 ヨハン・サルヴァドルについて
1852年〜1911年。トスカナ大公レオポルト2世とナポリ皇女マリアとの間に生まれた
ハプスブルグ家の 大公。皇太子ルドルフと仲が良く、プロシア嫌いでロシアと接近を
図るのが国家にとって最善の方策だと考えていたので、彼と組んで親露政策をはか
る。そのため当時プロシアとの外交政策を取っていた皇帝フランツ・ヨーゼフと対立。
彼は交替しルドルフをハンガリーの王に据えようとしていた。ルドルフがマイヤーリン
ク事件により亡くなると、皇籍を離脱して市民になった。恋人のミリー・ステュベルと
ともに南米に船で旅経つが、ホーン岬で船が沈没して亡くなった。しかし遺体は上が
らなかったので世界中に「ヨハンが出没した」と言うような説が生まれた。
 
 いずれにしても今となっては真実を知る事は出来ないが、ただの心中事件で済ま
せるにはあまりにも納得が行かない事件である事は事実である。


 
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