皆さん、こんにちは。
霧隠です。
お城によくあるお城の模型のお話ですが、今回この模型を発注した関係者の
貴重なお話を聞くことができましたので、模型作成にあたっての苦労やこだ
わりについてご報告したいと思います。
普段何気に見ていただけのお城の模型。
天守閣はもちろん、本丸、二の丸、三の丸、さらには各種櫓、塀、門、お堀
とお城の縄張り、町割などが一目瞭然と分かるすばらしきビジュアル資料。
今までもすばらしいとみとれていたのですが、今回お話を聞いて今まで自分
は何にも分かっていなかった、いや、本当にしっかり見てはいなかったと反
省させられました。
お城の模型を作る際に、最も大変だったことは?
それは、「時代考証」だそうです。
模型作成にあたっての段取りとしては、
1.お城の絵図面を探す
2.古写真も参考にする
3.各家に残る古文書から当時の様子を調べる
4.絵地図から分からない細かいところは他の同様な現にあるお城を参考に
する
5.それでも分からないものは他の当時の様子が書かれた資料から「推量」
する
です。
まず、1番目の絵地図ですが、これはお城の設計図で、お城にも展示してあ
るので、ご覧になった方はご存知だと思いますが、屋敷や御殿の部屋割りな
どが「線」で書かれたものです。
これで「大まか」な建物の大きさや高さが分かります。
ただ、ちょっと大まかすぎて実際に図面に起こす際につじつまの合わないこ
ともあったそうです。
(例えば、図面通りに作成するとお堀のあるところまで屋敷があることにな
ってしまったり、本丸から御殿がはみ出たりというようなこと)
ただ、この絵図面だけでは分からないところが出てきます。
実際の建物を作成する際に、問題になったのが「屋根」と「土塀」だったそ
うです。
言われてはっと気づきましたが、よく見るとここの模型は、お城はしっかり
黒色の「瓦」を使っていますが、家老屋敷や武家屋敷の屋根は「黒色」と「
茶色」の2種類あります。
黒色が「瓦」、茶色が「茅葺(かやぶき)」になります。
瓦は防火性が高く、天守閣や櫓に使用されています。
ただ、瓦は当時はとっても高級品。
はたして、家老屋敷や武家屋敷まで瓦だったのかどうか?
ここからが模型作成関係者の頭を悩ます問題になります。
先にあげた段取り通りに考えていくと、まず、絵図面には屋根のことまでか
かれておりません。
残念ながら古写真にも全ての屋敷は写されていません。
各家に残る古文書を当たると、ある家はしっかりと当家は「瓦」を使用して
いたと書かれている!(ので、この家はしっかり屋根は「瓦」になっていま
す)
が、他の家の記録は紛失して分からない
ここで、この尼崎だけではらちがあかないので、他の地域に目を移します。
残っている武家屋敷を見ると瓦もあれば、かやぶき屋根もある。
全てが瓦というわけでもなし。
それでは、江戸時代を通じて一般の家のことを書かれた絵や文献を探すこと
に。
それによると、やはり一般的なのは「かやぶき屋根」。
よほどの高禄の武士でなければ「瓦屋根」を採用するものはなかったようで
す。
いかに瓦が高価なものか、気づかされます。
しかし、尼崎城の武家屋敷が絶対「かやぶき屋根」だったとも言い切れない。
できれば、時代考証の考え方から再現したいが・・・
こうなると、あとは作り手がどれを採用するかになります。
「屋根」のことだけでもこれほどの「時代考証」をされたことにただもうビ
ックリ。
頭が下がる思いです。
結局は、時代を鑑みて、基本は「かやぶき屋根」を採用し、でも、全てをか
やぶき屋根の茶色の屋根にすると、さすがに見た目が悪いから・・・と一部
瓦屋根を採用したようです。
この話をされるときのこの関係者の苦渋の表情は忘れられません。
関係者全員の真剣な思いが伝わりました。
さらに、家老屋敷をしきっている「土塀」。
これも大いに関係者を悩ましたそうです。
某全く気にもしてなかったこの土塀。
模型を見ると、家々をしっかり漆喰の塀で囲っています。
さながらお城の塀のよう。
実は、これは竹などで作った「垣根」だったのではないか? という疑問が
最後まで残ったようです。
その理由は、大名が変わるごとに、屋敷の普請をし、家の家格によっても大
きさが変わるはずだから、そのたびにお金も労力もかかる土塀より垣根の方
が自然じゃないか、という考えと、家という建物が何百年も持つ訳がないの
だから、建てかえる際に邪魔な土塀にしないのでは、さらに、道路側は土塀
だとしても、家臣同士は敵対しているだけではないのだから、わざわざ防御
性にすぐれて、お金のかかる土塀にするのかどうか? というそれぞれの疑
問です。
しかも、文献を調べても世間一般は垣根が一般的なようで、わざわざ屋敷に
土塀をする例はあまりないとのこと。
ここでも、関係者はどちらを採用するかで大いに悩んだそうです。
(お話をしてくださった方のお顔もほんに苦しそう)
問題は、時代考証を重視するか、見た目を重視するか。
時代考証的には「垣根」に軍配があがるが、それでは模型の全体がしょぼく
なる・・・かも。
結局、模型は全てを土塀にしたそうですが、納得はいかれていないようです。
そのあつい思いに触れ、ただもう感動いたしました。
模型作成に最も時間がかかったのは、やはりこの「時代考証」だったそうで
す。
絵地図、古文書、他のお城、当時の資料、さまざまな情報を調べ、そして、
どれを採用するか、この模型を作成するのに丸1年準備につかったのにも
納得いたしました。
それ以外にも、問題になったのは、どの時代の絵図面を採用するか、でした。
やはり江戸後期の絵図面が最も詳しく書かれており、実際の模型作りに参考
にしたようですが、ここでも一点違うところがあります。
それは、当時にはすでにあった、海を干拓して作られた「築地町」がないの
です。
これは、当時の江戸後期の絵図面(これは入口に展示されています)を見る
とお城の正面の中洲にある町で、前回も書きましたが、以前お城の中を通行
できたのを、この中州を干拓して、築地町を作りそこに中国街道を引っ張っ
てきたのです。
ですので、江戸後期の絵図面を採用したのであれば、城下町の一部として当
然この築地町も模型に加えないといけないのですが、これを加えると尼崎城
の特長である「浮き城」を堪能できないので、敢えて加えなかったそうです。
(これがあると、正面から模型を見た際に、この町が邪魔になり、天守閣の
見栄えが悪くなります)
また、絵図面を建築関係者が見た際のエピソードとして、
「この図面通りに川を作ると、絶対洪水が起こるよ」
とおっしゃったそうです。
事実、この川は掘の役割を持たせるために、直角につくりかえたもので、事
実この川は何度か洪水を起こし、その後なめらかに改修したそうです。
でも、絵図面には直角にかかれているので、敢えて直角にしてあるそうです。
これは、絵図面と実際のお城とのギャップを表しています。
それにしてもさすがに専門家はすごいです。
それ以外にもたくさん、興味深いお話を聞くことができました。
最後に印象に残ったことは、模型を見ると、ところどころ、かどっちょにあ
るべき「櫓」や「塀」がないことに気づきます。
どうしてですか? と伺ったところ、絵図面にもなく、記録にもないから、最
初はあったのだろうが、火災かなんかで消失し、その後作られなかったのだろ
うとのこと。
こういうところからも事実に基づいた模型つくりをされているのを改めて実感
いたしました。
以上で、長くなってしまいましたが、尼崎城の模型に関する話を終了したいと
思います。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
また、この場をお借りして、1時間半にも及ぶ大変おもしろいお話をしてくだ
さった会館の方に感謝申し上げます。
本当にありがとうございました!
それでは〜