皆さん、こんにちは。
霧隠です。

毎日長々とあいすみませぬ。
本日は人吉城についてご報告したいと思います。

・・・が、いつもはお城でもらうパンフレットの縄張り図を見て報告書を
書くのですが、今回はそれがないので、曲輪の名称や位置関係があやふや
なので、特に印象深かったところだけをご報告したいと思います。

原城探索の後、船着場に出ました。
江戸時代の物資の流れはこのように川を使うのが多かったのでしょう。
雄大に流れる球磨川はお城の外堀になるのと同時に外の世界との重要な交通
ルートとして利用されていたのでしょう。
当時の活気のある人々の声が聞こえそうでした。

さて、大手門から入り、いきなり見事な石垣が出迎えてくれます。
相良氏というのは、鎌倉時代に静岡からやってきて明治までこの人吉の城主
として存続するのですが、その事実を恥ずかしながらはじめて知り、また
そのすごさを実感しました。

公園としてよく整備されており、地元の方が散策されておりました。
下草もよくかられており、二の丸、三の丸はほんにええ味出しています。
特に、二の丸から城下の眺めは抜群で、城主になった気分です。

石垣もしっかりしており、ところどころ残念ながらはらんでいる(膨らんで
崩壊しそう)場所のありましたが、大体の石垣はこれからもしっかり我々の
目を楽しませてくれるでしょう。

ちょっとコースから離れると人の手入れを離れるのか、コケむした石垣が
ひっそりとたたずんでおり、とっても風情があります。

本丸は、当時から城主がいた場所というよりも、神を祭る場所として神聖な
趣きがあります。
ただ、木々が当り一面生い茂っており、やはり景色を見るならば、二の丸の
御殿からがいいです。

今井さんとてくてくお城を堪能しながら歩いていると、於都加社(字が違うかも)
という曲輪があり、その説明には・・・
「ここはもともとお墓(御塚)と呼ばれており、相良氏の前に人吉をおさめて
 いた矢瀬氏を相良氏2代長頼が供養するためにこのお墓を作ったといわれて
 いる」
と書かれていました!

ん? なぜに人吉に入った2代目が、父が入部したことで、どこに行ったか
分からない矢瀬氏を城内に奉っているのか?
やっぱり、矢瀬氏は地元の方がおっしゃるように闇討ちにあい、そのたたりを
恐れて供養塔をたてたのか・・・

あくまでも言い伝えですし、伝説が必ずしも正しいとは思えませんが、まったく
無知の状態から始まった矢瀬氏の物語が某の中で完結した思いです。

しっかりと両手を合わせてお祈りしてきました。

郷土に残る小さな物語。
実際に旅をして気付かされる様々なドラマ。
やっぱり、旅はええもんです。

と、時刻をみたら、まだ4時半。日が暮れるのは5時半だから、まだ時間がある〜

ということで、さっき行けなかった中世山城原城の「西の丸&出城」探しに
レッツゴー!
Iさん、ほんに地図もよーみんと引っ張りまわしてごびんなさい。
でも、御蔭で思う存分楽しむことができましたm(_)m

ぐるっと民家をまわって、公民館の裏手をまわると・・・なにやら細い登り道が!
ずんずん登ると竪堀が!
ええ感じです。

ここがやっぱり西の丸?
曲輪っぽいし・・・とあたりを見渡すと、お墓、お墓。
なぜに最近曲輪でお墓をみるのだぁ〜
こちらの年代は明治から昭和初期にかけて。
近くにあったお寺もなくなっているのでしょうか。
一人ではめっちゃ怖い場所です。

そのまま探索を続けると、上に登る道発見!
登って行くとここにも、堀切が!
左手には、曲輪もある。
完全にヤブですが、何か西の丸を証明する看板でもないか探しましたが、
見つからず。

しかたなく、道の続く方向にビクビクしながら進んでいくと・・・
最初に引き返した道に遭遇!
ということは、ここが上原城だから、やっぱりあそこが西の丸だったのかぁ。

ふぅ〜、となると出城があそこでっと。
こいで原城を完全にぐるりと一周したことになり、完全制覇達成なり。
満足、満足。

すでにあたりは日が暮れてきたので、人吉を後にしました。
それにしても、思わぬ発見もあり、十二分に楽しめた一日でした。
人吉城もええお城ですが、隣の原城もおもしろいですよ〜

以上で、原城、人吉城のご報告を終えたいと思います。
明日は、熊本城についてご報告したいと思います。

それでは〜

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