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 【週刊『国宝』】 第19号 
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 「鑑真和上坐像(がんじんわじょうざぞう)」 

 せっかくなので、鑑真和上についてしっかり、調べてみました。

 鑑真和上とは、688年、唐の時代の中国に生まれ、20歳のときには高い名声
 を得ていた高僧です。
 
 773年第9次の遣唐使の使者として、栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)が
 選ばれました。
 彼らは日本の仏教を広めるために唐の国から戒律を授けることができる高僧を
 連れて来るように日本書紀の撰者でもある舎人(とねり)親王から命じられま
 す。
 
 栄叡、普照は中国全土を歩き、日本に来てくれる僧を探します。

 しかし、なかなか日本に来ることを承知してくれる僧はいません。
 理由はいろいろありますが、

 ・日本は当時唐と比べると発展途上国だった
 ・戒律を授けることができるほどの高僧が出国するときには皇帝の許可が必要
  で、有能な僧が国外に行くことは基本的に認められなかった
 ・当時の船舶技術では船の難破が多く、命の危険があった
 ・名声のある高僧は多くの弟子を持っており、なかなか彼らを見捨てる訳にも
  いかない
 
 などの理由があったと思います。

 鑑真も最初は自らではなく弟子に日本行きを尋ねました。

 しかし、誰も尻込みして名乗り出なかったので、ついに自ら日本行きを決意し
 ます。

 ときに、鑑真55歳のときでした。

 それから、鑑真は日本への渡航を5度失敗しています。
 5回のうち3回は船が難破し、1回は弟子による密告から栄叡と普照は逮捕さ
 れてしまいます。

 753年、6回目の渡航に際してようやく日本に到着します。
 渡航を決意して11年がたち、鑑真は66歳になっていました。

 その最中に失明してしまったと伝えられています。

 無事、日本にたどりつき、76歳で亡くなるまでの10年間に、
 
 ・東大寺大仏殿前にて聖武上皇、孝謙天皇に授戒。東大寺に戒壇を設ける。
 ・孝謙天皇から大和上(だいわじょう)の位を与えられる
 ・平城宮右京五条二坊に、唐招提寺建立。戒壇を設ける。

 *授戒とは僧としての資格を与える式のことをいう。

 という活動をしています。

 これによって日本に正しい仏教が伝えられることになります。
 
 鑑真の来日によって日本に仏教が正しく根付いたといっても過言ではないかも
 しれません。

 遅れた日本のために死を賭してやってきた鑑真和上。
 大和朝廷はそんな鑑真に和上という位を与え、唐招提寺も建立し、最高の待遇
 で迎えます。

 その志に応えるためにも、鑑真和上は死しても仏教の教えが伝わるようにこの
 像を作らせたとも伝えられます。

 製作は鑑真和上と一緒に来日した弟子の一人が手伝ったと言われています。
 日本最古の肖像彫刻でもあるこの鑑真和上像は、まだ鑑真和上が目を閉じて座
 禅をしているようなぬくもりがあります。

 それだけ生前の鑑真和上を忠実に再現したのでしょうが、見ているとつい「南
 無阿弥陀仏」と唱えたくなります。

 鑑真和上76年の生涯がこの木像に全て凝縮されています。

 柔らかく柔和な表情は見るものの心を和ませるだけでなく、仏教に生涯を捧げ、
 民衆の平安を願った芯の強い人の生き様が伝わってきます。

 真剣に生きてきたものだけが発するオーラに圧倒されそうになります。

 真面目に真剣にひたむきに。
 誰よりも自分の心と正直に向き合った人の顔が見られます。

 そんな心に強い刺激を与える鑑真和上像。
 もしかしたら、今世紀中に見られるのはあと2週間あまりかもしれません。

 最近、険悪な関係になってきた日中関係。
 1200年前に日中の架け橋になるため命を賭してやってきた鑑真和上の偉大な
 姿を見るのもいかがでしょうか?

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