【キリのコメント19】

 いよいよ桶狭間の合戦です。
 まずは、前回もご紹介した「桶狭間の合戦の地図」をご覧ください。

  「桶狭間合戦図」 

 信長公記に描かれている信長の桶狭間での行動を書き出してみました。

 8:00 熱田神宮到着 騎兵6人、雑兵200
      ↓
     丹下の砦
      ↓
     善照寺:丸根砦から脱出した佐久間大学に会う
      ↓
     ★ここで軍勢を立て直し、義元の兵力(45000)と場所(桶狭間山)
      を知る

 12:00 今川義元、丸根、鷲津砦攻略。謡を3番うたう
    家康、大高にて休息

    佐々隼人正、千秋四郎300人ほどで義元勢に向かうも二人とも討ち死に

    それを見た信長、中島に移動。兵2000になる。
    ★ここで、信長がさらに前進しようとして家臣に止められようとする。

    そして、兵たちを説得するための演説を行う。

 地図ですが、丹下→善照寺→中島となりますが、お恥ずかしいながら、私自身
 は桶狭間に行ったこともなく、当時の海岸状況も分かりませんが、善照寺から
 中島へのルートがいまいちピンときていません。

 そもそもこの地図が描かれていたニュートンプレスでは、丹下、善照寺までは
 一緒でも、その後、中島には信長が行っていないことになり、善照寺から、相
 原を通って、小坂と細根のちょうど真ん中を通って、田楽狭間にいる義元を側
 面から奇襲したような進軍ルートになっています。

 信長公記には家臣が止めるのにも関わらず、かまわず中島に信長は行ったこと
 になっています。

 ここで分からないのは、善照寺から直接中島へ行けたのかどうかです。
 私の(勝手な)推定では、川を渡って直接書いています。

 でも、川が広ければ、渡河するより迂回して中島にいったのでしょうか?
 …ちょっとよく分からないです。

 よく桶狭間は奇襲だったと言われていますが、信長公記を読む限りでは“奇襲”
 というより、義元側の油断しているところを、正面から“強襲”した…という
 ことだと思えます。

 次回では、義元が討たれるシーンを描きますが、実際に義元が討たれるまでの
 描かれ方を見ると、正面からの攻撃に思えてしまうのは、私だけでしょうか?

 私は、小瀬甫庵の書いた「甫庵信長記」は読んだことはありませんが、この江
 戸時代にベストセラーになった本は、あまり資料的価値はないと言われていま
 す。

 歴史書では大切な、「いつ、誰が、どこで、何をした」という表記がないからで
 す。

 読み物としてはおもしろいかもしれませんが、信憑性は「???」みたいです。
 でも、書き方がうまいので、多くの現代の小説家もこの「甫庵信長記」を参考
 に小説やドラマを作るから、間違った信長像が描かれているのかもしれません
 ね。

 信長公記に描かれている信長は、洞察力がすぐれ、冷静で、合理的で、勇気の
 ある武人としてかなり具体的に描かれています。
 
 そもそも最初、熱田神宮から丹下に向かうのも、海岸沿いに行った方が近いが、
 潮が満ちて危ないから上手の道を行ったり、善照寺で丸根砦から逃げてきた佐
 久間大学の話を聞いて、状況を把握したり、家臣たちが止める中島への進軍も
 敢行しています。

 そこには抽象的な表現はなく、かなり具体的でいきいきとした描かれ方をして
 います。

 せっかくなので、信長公記に書かれている信長の中島での兵への演説をそのま
 ま掲載いたします。

 「各々(おのおの)よくよく承り候へ。あの武者、宵に兵糧つかひて夜もすが
  ら来たり、大高へ兵糧入れ、鷲津、丸根にて手を砕き、辛労してつかれたる
  武者なり。こなたは新手なり。其上小軍ニシテ大敵ヲ怖ル、コト莫カレ、運
  ハ天ニ在リ、此語は知らざる哉。懸からばひけ、しりぞかば引付くべし。是
  非にねり倒し、追崩すべき事案の内なり。分捕(ぶんどり)をなすべからず、
  打捨(うちすて)たるべし。軍(いくさ)に勝ちぬれば此場へ乗ったる者は
  家の面目、末代の高名たるべし。只励むべし」

 理にかなった、人のやる気を引き出す名演説だと思います。

 このセリフもぜひとも、大河ドラマでも取り上げてほしいですね。

 ところで、なぜ信長は家臣が止める中、中島進軍にこだわったのか?
 次回以降検討してみたいと思います。

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