【キリのコメント21】
今川義元討ち死に後に、信長公記はことの発端であった、山口親子の顛末を書
いています。
もともと信長の父、信秀によって鳴海の城主に取り立てられながら、信秀死後、
今川家に寝返り、あまつさえ愛知郡まで侵攻した山口親子に待っていたのは、
駿河に呼ばれての自害だった。
そのせいで義元は桶狭間で死んだのだ、と信長公記の作者の太田牛一は書いて
います。
そして、それに続いて、義元討ち死にの後を追って死んだ今川家の家臣のこと
が書かれています。
山田新右衛門と松井五八郎です。
山田の死に対しては、「実に命ハ義ニヨリテ軽シト言フ事、この節なり」と書い
ています。
その後、信長は義元の首を馬の先に掲げて清洲に帰ったとあります。
翌日の首実検では、3000人の今川方の首があったと信長公記は書いています。
そして、義元のそば近くで仕えていた同朋に、義元最期の有様を聞き、見知っ
た人の名前を書かせます。
その後、信長がしたことは、
1.同朋にのし付の太刀・わきざしを下す
2.10人の僧を選び、義元の首を同朋に持たせ、駿河に送り返した
3.清洲から二十町南の熱田へ通じる街道に「義元塚」を築く
4.供養のために千部経を読ませる
5.大きな卒塔婆をたてる
6.義元秘蔵の刀、左文字の刀を召し上げ、試し切りをした
7.その刀を自ら普段差した
8.鳴海の城にいた岡部五郎兵衛の降伏を許し、退去を命じた
です。
討ち取った敵将義元を礼にかなった葬儀をしています。
もちろん、首はちゃんと返しています。
とても大うけつと言われた人物とは思えない落ち着きのある行動。
これ以降、信長の戦略は冴え渡ります。
こうして無事、大敵今川義元を討ち取った信長は、いよいよ京を目指して進軍
を開始します。
まずは、進路を北へ。
足掛け7年。
美濃攻略が始まります。