【キリのコメント22】

 信長公記では、桶狭間の合戦のすぐ後に、弟信行の謀反のことを書いています
 が、時系列的におかしい話です。

 史実では、信行殺害は、3年前の1557年です。
 なぜ、桶狭間の後に太田牛一は書いているのか?
 憶測ですが、桶狭間の華々しい活躍の後ならば、最大の敵を撃退した後に、家
 中の統一をはかるために、謀反の芽をつむのは仕方ない…と読むものに思わせ
 ようとしたのでしょうか?

 桶狭間の前に史実通りの書くと、弟をだまし討ちにする悪いイメージをもたれ
 ることを恐れたのでしょうか?

 …憶測なので、なんともいえませんが、私は最初、桶狭間の後に弟を殺したの
 か、と思ってしまいました(^^;

 実は、この信行殺害の前に、信長公記では徳川家康が、岡崎の城を居城にした
 ということが書かれています。

 その後、信長と境界争いをしているようですが、ちょっとこの戦いの年代が分
 からないので、敢えて割愛しています。

 さて、同母弟、信行殺害は、信長ファンなら皆知っている物語ですね。
 兄弟で家督を争い殺し合いをするのは、伊達家が有名です。

 信長と信行の確執は、父親の葬儀から始まって、すでに一度信行は信長に謀反
 を起こし、その戦いに敗れて、兄に謝って許してもらっています。

 なのに、また謀反を起こした信行。
 しかも、今回は家老の柴田勝家が寝返っているわけですから、私の主観ですが、
 あまり賢い人物ではなかったような気がします。

 信行二度目の謀反の経過を描いてみると、

 1.竜泉寺を城として築く
 2.上4郡の守護代、織田信安と手を組み、信長の知行地を横領しようとする
 3.若衆、津々木を寵愛し、有力な家臣もつける
 4.ないがしろにされたと思った家老の柴田は信長に信行謀反を打ち明ける
 5.信長が仮病を使い、外に出なかった 
 6.お袋様と柴田は信行に兄弟だから見舞いに行ったらという
 7.清洲に見舞いにいった信行を北の櫓で殺害した

 この話を読んで、同じようなことから家臣に殺された男を思い出しました。
 その男も、腹違いではありますが、信長の弟でした。

 そう、14話で書いた、織田安房守信時です。
 彼も、自分と同じような若者を寵愛し、家老をないがしろにし、それを嘆いた
 家老に殺害されてしまいます。

 信行も若衆、津々木を寵愛し、家老である柴田をないがしろにし(実際は寵愛
 を受けた津々木が年長の柴田を愚弄したようです)、無念に思った柴田が信長に
 全てを打ち明ける…という話です。

 その結果、信長は仮病をつかい、信行を城に招き寄せ、一思いに殺してしまい
 ます。
 だまし討ちではありますが、信行も謀反を起こそうとしていた訳ですから、自
 業自得ではあるのでしょう。

 兄、信広、弟、信行と身内からも反旗を翻された中で、家中をまとめ、今川義
 元を桶狭間で粉砕したことになります。

 四面楚歌の中での、家臣を掌握していった信長のすごさを改めて実感する思い
 です。

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