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お城旅行記 第42号 2003年1月12日発行 (発行部数 1052部)
「長篠城攻略記3」
長篠城合戦記編
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皆さん、こんにちは。
霧隠です。
これを書くにおいて、参考に(というよりそのまま採用〜)したのが、長篠城址
史跡保存館でもらえる「奥三河 古戦場の旅」というパンフレットです。
このパンフレットをもとに、長篠城合戦を某なりに気ままに再現してみました。
さて、長篠城の合戦での某の疑問は・・・
なぜ武田軍は500しかいなかった長篠城を攻略できなかったのか? につきます。
改めて武田軍の配置を兵力も含めて書いてみると・・・

*兵数に関しては「歴史の館〜長篠合戦1〜」
を参考にしました。ただ、鳶が巣山砦の人数はちょっと自信なし。
ちなみに武田軍の布陣は、
★医王寺山陣地・・・武田勝頼本陣
★後詰・・・・・・・甘利信康・小山田信茂
★天神山陣地・・・・一条信竜・真田信綱・土屋昌次
★大通寺陣地・・・・武田信豊・馬場信春・小山田昌行
★岩代陣地・・・・・内藤昌豊・小幡信貞
★有海陣地・・・・・山県昌景・高坂昌澄
★篠場野陣地・・・・武田信廉・穴山信君・原昌胤・菅沼定直
★鳶が巣山砦・・・・武田信実
となっております。
そうそうたるメンバーです。
ここで、長篠城合戦をダイジェストでまとめてみました。
・・・といってもパンフをそのまま引用ですが(^^;
長篠城合戦の経過
●1575(天正3)年5月
★6日7日 武田勝頼、古田城(豊橋市)に迫ってこぜりあい
★8日 武田勝頼15000の兵で長篠城(奥平貞昌、500)を囲む
★10日 大手門付近で戦闘、城兵門外に出て武田軍を追い払う
★11日 武田軍、豊川を筏で渡り、野牛郭を攻撃。城兵も多数の死傷
者が出るも武田軍撃退。
★12日 武田軍、本丸西隅に金堀衆を使って横穴を掘り侵入を企てる。
しかし、城兵これも退ける。
★13日 武田軍、瓢郭を攻撃。夜、瓢郭の奥平軍本丸へ撤退。
武田軍が本丸そばに立てた望楼を奥平軍大鉄砲で破壊。
★14日 武田軍総攻撃をするも城兵死守。
鳥居強右衛門、脱出。
★15日 強右衛門、岡崎に到着し、家康に援軍要請。
織田信長も岡崎着陣。
★16日 強右衛門、武田軍に捕らわれ、城中へ援軍到来を伝え、はりつ
けにされる。
★18日 織田(38000)徳川(8000)軍設楽が原に着陣。陣地を築く。
★19日 武田軍軍議を行う。勝頼は諸将の諫言を容れず、設楽が原の敵
陣攻撃を決定。
★20日 武田本体は城の包囲をとき、設楽が原へ進軍。
酒井忠次は鳶が巣山砦へ向かう。
★21日 設楽が原で両軍激突。
午後武田軍敗退。勝頼多くの将兵を失い、逃走。
ということがパンフレットにかかれております。
これを読むと3つのことが分かります。
1.武田軍は長篠城の前後左右から本気の攻めをするが、奥平軍が全員でなんとか
援軍が来るまで守りぬいた。
2.長篠城の合戦は、織田、徳川の援軍が来るのがもう少し遅ければ落城したかも
しれない。
3.織田、徳川連合軍が設楽が原に着陣したので、武田軍も設楽が原へ向かった。
1に関しては、上記の兵の配置を考えると、1点集中で守ればなんとか守れそう
かもしれないと思いました。
まず、武田軍は、正面の大手門あたりを攻めます。
その翌日には前日攻略で油断していると思ったのか、もっとも攻めにくい、城の
後ろ手である豊川を渡って城内を攻略しようとします。
しかし、これは撃退されてしまいます。
・ ・・多分ですが、鳶が巣山砦をはじめ、5つの砦にいる全兵力を合わせても1000
人しかいないのと、川を渡っての攻めは非常に難しいからだったのかもしれませ
ん。
それでも、奥平軍に損害を与えています。
続いて、武田軍が誇る金堀衆が本丸西隅から横穴攻撃。
・・・城内は生きた心地がしなかった気がします。
それでも穴に気づいたのか、これも撃退します。
う〜む、どうやって分かったのだろう。
掘っている音が城内にも聞こえるのだろうか。
しかし、武田軍攻撃3日目は正面からの攻撃。
瓢郭が落ちてしまいます。
これは、方向的に大通寺砦の馬場信春公が兵を率いていたのでしょうか。
500 VS 2000
しかし、すでに城内の兵は500いなかったのではないでしょうか。
それでも、まだ本丸までには巴郭、帯郭があります。
長篠城攻防戦、第4日目にはついに武田軍は総攻撃を開始します。
大通寺陣地、岩代陣地、有海陣地、篠場野陣地の4方向からの波状攻撃。
とはいえ、外堀、内堀はこの段階ではまだ健在だったのでしょうか。
馬場信春公、小山田昌行公、内藤昌豊公、山県昌景公が指揮するそれぞれの部隊
の総攻撃。
それにも絶える奥平軍。
500の兵でどのように守るのだろう・・・
内堀があり、外堀があり、背後は川があり、ガケがある。
正面の敵だけを相手にすれば良かったのか?
本当にそうなのか?
やはり城主と城兵の心が一体感を持っていなければ守りきれないのでしょうか。
・・・う〜ん、やっぱり良く分かりませんでした。
でも、資料館にある血染めの陣太鼓を見ると、奥平軍の必死の防戦が目に浮かび
ます。
この4日目の総攻撃を境に、武田軍は力攻めをやめ、兵糧攻めに変えます。
武田軍の兵の損傷も多かったのでしょうか?
兵糧攻めを決定したその前日の夜、鳥居強右衛門が完全包囲中の長篠城から主君、
徳川家康公のいる岡崎城を目指し、闇夜にまぎれて城内から脱出します。
豊川の川の中を武田の警備兵に見つかることなく、川下へ進み、その後、かんぽ
う山にて、無事脱出ののろしをあげて、そのまま岡崎まで一気に駆け抜けます。
その距離なんと、50キロ!
一晩でかけぬけた彼は、すぐに家康公に援軍を請います。
ちょうど岡崎に着陣した織田信長公もその勇気ある行動を褒め称えます。
織田、徳川軍の援軍が来ることを聞いた、強右衛門はそのまま岡崎でやすむこと
なく、来た道50キロを戻ります。
そして、武田軍につかまり、城内に織田、徳川の援軍が来ることを文字通り命が
けでつたえます。
そして、城兵の見ている目の前で磔にされてしまいます。
彼の働きを抜きにしては長篠城合戦を語れないと思います。
彼の援軍来れり! という報告はどれだけ勇気付けられたか。
もし、彼が脱出できなければ、織田、徳川軍の援軍が来る前に奥平軍は力尽きて
開城していたかもしれません。
こうして考えると、長篠城合戦を語る上でポイントになるのは、期間だなぁと思
いました。
つまり、奥平軍は7日間城を守るだけで良かったのです。
もし、これがあと1週間援軍がこなければ、落城していたかもしれません。
織田、徳川軍、設楽が原に着陣!
その報を聞いた、武田軍は軍議を開き、設楽が原に進軍します。
それは、なぜか?
どうして、武田軍は設楽が原で惨敗したのか?
次回・・・と思いましたが、長篠城で時間を使いすぎたので、設楽が原はちょろ
っと歩いたくらい。
山県三郎兵衛のお墓と徳川家康陣のみだったので、1月か2月に今度は一日じっ
くり設楽が原をめぐりたいと思いました。
ということで、詳しい報告はそのときにでも・・・