第61話 朝倉との和睦
「五郎左よ、そちは勢田に赴き、鉄の綱にて舟橋を掛けよ」
「かしこまりました。これで京への往来も容易になりまする」
「うむ、村井、埴原を警固としてつけよう」
「ありがとうございます」
11月16日、信長は勢田に鉄の綱でできた舟橋を作らせた。
ところ変わって、尾張小木江村。
「申し上げます! 長島より一揆勢が大挙押し寄せて参りました!」
「何と、すぐに迎え撃つのだ!」
「はっ!」
小木江には信長の弟、彦七が任されていた。
しかし、日を追って激しくなる攻撃に、ふいをつかれた彦七は、防戦一方で、
あっという間に城内へ攻め込まれてしまった。
「こうなってはぜひもなし。一揆ごときの手にかかって果てるのも無念である」
こう思った彦七は、天主に上がり、切腹した。
11月21日のことであった。
「申し上げます! 彦七様、一揆勢に攻められ、敢え無い最期を迎えました!」
「何! 誠か! …彦七」
しばし、声を失う信長。
「かくなる上は仕方がない。佐々木承禎と和睦いたす。すぐに使者を送れ!」
「かしこまりました」
これ以上の戦線拡大は被害が増すと思った信長はすぐさま、佐々木承禎と和睦
をした。
彦七が死んだ翌日、11月22日のことである。
これによって近江の土豪たちも志賀にいた信長のもとに出仕し、近江に平穏が
訪れるようになった。
この流れを受け、11月25日堅田の猪飼、馬場、居初の三人が信長側に寝返っ
た。
信長はこれを許し、人質を受け取り、すぐさま援軍千人を堅田に派遣した。
「申し上げます! 堅田の三人が信長に寝返りました!」
「何! それはまずい。われらの退路がなくなってしまうではないか! すぐ
さま兵を出せ!」
「ははっ!」
これ以上援軍が来る前に、越前勢は必死に攻め寄せ、多大な被害を出しながら
もなんとか堅田の城を落とすことができた。
「ふぅ、あやういとこであった」
「しかし、まもなく冬もやってくる。このままここでにらみ合いを続けている
と、北国への通路がふさがれてしまうぞ」
「そうだな、早く和睦に持っていかなければ我らの身が危うい」
「では、どうすればいいか? 信長は決して和睦を認めようとせぬぞ」
「うーむ…、そうだ! 義昭様にお願いしたらどうだろう?」
「将軍にか?」
「あぁ、もともと我らには多少の恩義も感じているだろうし、うわさによれば
信長の傀儡同然の地位に満足していないという話だ。我らを滅ぼしでもすれ
ば、さらに信長の勢力は増す。義昭様もそれは望まないだろう」
「…そうかもしれん。信長も名目上でも主君である義昭様のご命令ならば受け
入れるしかないだろう」
「よし、では、さっそく信長にさとられぬように義昭様に使者を送るのだ」
こうして、朝倉は将軍義昭に働きかけ、和睦に持っていこうとした。
しかし、信長は義昭の頼みさえも聞かず、かたくなに和睦に反対した。
「義昭様、三井寺にお越しのようでございます」
「またか」
11月もみそかになって、ついに義昭は三井寺まで来て、信長に朝倉との和睦を
説いた。
「なんとか、朝倉との和睦を受けられないものか」
「…かしこまりました。上意謹んでお受けしたいと思います」
「おぉ、ついに受けてくださるか。さっそく朝倉に和睦の使者を送るのだ!」
信長もこれ以上上意を無視するわけにもいかず、しぶしぶ和睦に同意した。
「朝倉よりの条件を申し上げます」
12月13日、浅井、朝倉との和睦が成り、和睦の条件を義昭からの使者が伝え
た。
「一つ、織田家が琵琶湖を渡って勢田まで退くこと。二つ、浅井、朝倉軍が高
島郡に退くまでは織田方より人質を出すこと。この2つの条件が飲めなけれ
ば朝倉は撤退が迷惑とまで申しております」
「人質は出せない。しかし、勢田まで撤退することには同意いたす」
こうして、14日は信長は湖水を渡り、勢田まで撤退し、15日早朝からは朝倉
勢が比叡山から撤退していった。
16日は大雪の中帰陣。
佐和山のふもと磯の郷に宿泊。
17日には岐阜に戻った。
<参考文献>
ニュートンプレス:信長公記(太田牛一:原著 榊原潤:訳)
角川ソフィア文庫:信長公記(奥野高広、岩沢愿彦 校注)