皆さん、こんにちは。
霧隠です。
話は前後しますが、石垣一夜城の次ぎに訪れた小田原城のこと
をご報告します。
すでに小田原城の詳しいご報告はむくさんが「shiro:20307」
「shiro:20316」でされていますので、某はちょっと違った視
点でご報告を。
題して「小田原城攻城記〜なぜ小田原城は落城したのか〜」
です。
皆さん、ご存知のように、小田原城は「小田原評定」という
不名誉な言葉を残して、豊臣秀吉公に開城。
城主北条氏直公は高野山へ蟄居。
父親4代氏政公、弟八王子城城主氏照公は切腹。
ここに、早雲公以来の後北条氏は滅亡します。
某小田原城は初めてでしたが、小田原城に対する知識は、上杉謙
信公、武田信玄公に攻められるも篭城して、撃退(というより両
者とも撤退)。(このときの城主は3代氏康公)
そこで、自信を深めた氏政公は、日本の西半分の支配を固め、関
白になった豊臣秀吉公の関東総無事令(?)の命令にそむき、真
田氏の名胡桃城を攻め、小田原城攻めが決定。
・・・そして、滅亡。
・・・の部分は、全くよく知りませんでした。
つまり、具体的な豊臣軍の布陣や戦の経過など、そして開城まで
の流れ、また、北条軍の戦力などは今回小田原城を訪れて初めて
知る事が多々ありました。
それくらい、小田原城の展示物は絵や図入りで大変分かりやすく、
とても勉強になりました。
と、前置きはこれくらいにして、小田原城攻城記のはじまり〜
(注)基本的に小田原城の展示物を見て某が「思ったこと」を
気ままに書いております。歴史的事実とはかけはなれて
いる可能性はあると思います。ご了承くださいませ。
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小田原城攻城記
【北条氏の戦略】
さすがに関東一円を支配下におきつつあった北条氏は、すでに西
日本を支配下におさめた豊臣氏の実力に気づきます。
その対策を考え、北条氏は豊臣氏と徹底的に抵抗することを考え
ます。
その戦略は、徳川氏、北条氏、伊達氏の三国同盟だったのではな
いでしょうか?
これならば、石高ではまだ負けていますが、なかなかいい勝負を
するのではと確かに思えます。
ただ、北条氏は豊臣氏を破って天下統一を目指していたのではな
く、あくまでもこの三国同盟を持って、関東の独立を目指したよ
うです。
なので、秀吉公の関東治世への干渉は許せないものがあったのか
もしれません。
伊達氏との同盟の証は勉強不足で存知あげませんが、徳川氏とは
家康公の娘を氏直公は娶っています。
しかし、北条氏は例え秀吉公に攻められても大丈夫という絶対の
自信があったのかもしれません。
その一つは、軍神とうたわれた戦国最強の誉れ高い上杉謙信公の
攻略をはねのけ、さらには甲斐の虎と呼ばれた名将武田信玄公で
さえも攻略できなかった小田原城があるのは自信を持つ一要素で
しょう。
今回、小田原城を訪ねて分かったのですが、小田原城はすごいで
す!
なにがすごいって、秀吉公が攻めてくることがわかる前から、お
城をぐるりと土塁と空堀で町全体を囲ってしまうのです。
その長さ実に「9km」!!
小田原市がすっぱり入ってしまいます。
まさに総構えの一大城下町。
9kmですよ、9km。
それも、上杉謙信公、武田信玄公が攻めたときにはまだそこまで
なかったのですから、二人の名将のときよりも守りを固めたこの
天下の名城小田原城がそうたやすく落城するとは思わなかったの
も不思議ではありません。
天守閣に登り、小田原の町を一望すればその思いも分かります。
実際に、豊臣軍はこの9kmの土塁・空堀の城壁を突破するのに3
次に渡る総攻撃を撃退して、4回目にしてやっと一部を突破でき
たという強固さを誇ります。
その他にも北条軍が誇る防御システムとして、各地に築かれてい
る八王子城、忍城などの支城システムがあります。
三国同盟。
9kmにも渡る土塁・空堀。
各地にある支城システム。
北条氏としても、必勝とはいえなくても、長きに渡る篭城戦に持
ちこんで豊臣軍を苦しめ、上杉軍、武田軍のときのように撤退さ
せる・・・という長期戦を想定していたのかもしてません。
しかし、北条軍の関東独立という野望も秀吉公の大規模な攻勢の
前にあえなく崩れ去ってしまいます。
では、北条氏はただ座して滅亡を迎えたのか?
次回は、北条氏がほろびたのはなぜか考察してみたいと思います。
それでは〜