皆さん、こんにちは。
霧隠です。
引き続きまして関が原の報告です。
脇坂軍の陣所跡から、大谷軍の陣所に向かう途中に、興味深い史跡がありましたので、
簡単にご報告します。
先ほども書きました、山中地区には、壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)と
大友皇子(弘文天皇)が関が原で戦った際に、破れた大友皇子の首実検した
場所があり、この地に葬られているといいます。
さらに、旧中山道を行くと、大谷軍の陣所近くに、源義経公の母君「常盤御前」の
お墓があります。義経公が鞍馬寺を脱出し、東国に行ったことを知った常盤御前は
義経公を追い、ここ関が原で山賊に襲われ亡くなられたとのこと。
地元の方がその霊を慰めるためにお墓をたてたそうです。
きれいなお花がたくさん供えられておりました。
さて、大谷軍の陣所は、小高い丘に位置し、徒歩で20分くらいで陣所につきます。
しかし、某は自転車でまわっていたので、自転車を押しつつ丘を登り、ちょびっと
難渋いたしました。
・・・山に自転車をもって登ったのは初めてでした(−−)
某は別段、関が原で東軍好き、西軍好きというのはないのですが、
なんともいえない雰囲気でした。
霊感とかは全くないのですが、一人で行くのは、(ちょっと)おっかなかったです。
まずはお墓参りをし、それから陣所跡に向かいました。道は歩きやすくよく整備
されており、10分くらいでつきます。
看板はありますが、残念ながら木々が生い茂り、見晴らしはよくありません。
大谷公はここに9月5日に布陣し、小早川軍に備え、近くの宇喜多軍の陣所の
作成の手伝いをしていたようです。
それから、大谷吉継公との友情から参陣された平塚為廣公の陣所に向かいました。
徒歩で20分くらいで、丘のふもとにありました。
詳しいエピソードは省略いたしますが、この地で西軍に寝返った小早川軍と
対峙し、その死の直前に平塚公が大谷公に送ったという歌がありますので、
ご紹介したいと思います。
「名の為めに捨る命は惜からじ 終に留まらぬ浮世と思へば」
その返歌として大谷公は、
「契りあれば六つの衢(ちまた)に待てしばし 遅れ先だつことはありとも」
という歌を詠んだと伝えられています。
石田三成公と大谷吉継公、大谷吉継公と平塚為廣公との友情は、胸が篤くなる
ものがござりまする。
さて、感傷にどっぷりつかったあとは、宇喜多軍の陣所に行こうと思ったのですが、
行き止まりになっていたので、ちょっと迂回して、そのまま石田軍の布陣した
笹尾山へ参りました。
ここから見る関が原はまた感慨深いものがござります。
必勝を期して布陣した三成公の心情に思いを馳せ、動かぬ毛利、小早川、島津の
各軍に対してどのように感じていたのだろうか、とついつい考えてしまいます。
望遠鏡で南宮山、松尾山を見ると戦の難しさ、合戦のはかなさを感じてしまいます。
さて、そろそろ半日レンタルの4時間が近づいてきたので、島津軍の陣所に
急ぎます。
本当は馬に乗って、敵陣突破をしたいのですが、今回は自転車で実際のルートを
こいでみました。
大体3キロくらいですので、甲冑を着た徒歩の足軽なら、歩いて1キロ10分と
して大体30分くらいの出来事なのでしょうか。
それとも騎馬だけならもっと早く駆け抜けたのでしょうか。
何万騎もの東軍の中央近くまで攻め入る度胸は某にはありませんが、死中に生を
見出す薩摩隼人にはただ驚くばかりです。
途中地図を無くしてしまったので、島津豊久公のお墓近くまでいって、結局
不安になって戻って行けなかったのですが、かなりの場所まで逃げ延びたの
だということが分かりました。
次回はちゃんとお参りしたいです。
その帰りに、本田忠勝公の陣所も見学。
人家のすぐ隣にひっそりありました。
そろそろ時間が来たので、駅に戻り、
次は南宮山♪
・・・なんて、体力も気力もすでになく(−−)
そのまま力尽きて江戸に帰りました。
今度こそ、松尾山の山中方面下山と、南宮山でお弁当を食べる野望を残して
関が原を後にしました。
と、簡単ではありますが、報告を終えたいと思います。
長々ととりとめのない話になってしまいましたが、最後までお読みくださいまして
ありがとうございましたm(_)m