皆さん、こんにちは。
霧隠です。
設楽原の合戦。
武田15000と織田、徳川連合軍38000が戦った合戦です。
結果だけを見ると、武田軍の大敗といっていい内容です。
一般には織田信長が3000の鉄砲の三段撃ちで武田の騎馬軍団を破った戦と
しても有名です(実際に地元の看板にはそう書かれいます)。
でも、はたして小説によく書かれているように、武田軍は織田、徳川軍の鉄砲
の前にあっけなく敗れたのか?
設楽原の合戦が、どのように始まり、どのように終わったか。
なぜ、武田軍は敗れ、織田、徳川連合は勝つことが出来たのか。
自分なりに考えてみました。
時は天正3年(1575)5月8日。
武田勝頼、長篠城を15000の兵で囲みます。
しかし、長篠城を守る奥平軍はわずか500の兵で1週間にわたり、城を死守し
ます。
鳥居強右衛門の死を決した援軍要請で5月15日には武田軍も織田軍が援軍に
来たことを知ります。
織田、徳川連合軍、設楽原に18日に着陣。
その間、武田軍は引き続き長篠城を囲みます。
しかし、織田、徳川連合軍が設楽原に布陣したことを知った武田軍は軍議を開
き、今後の対策を話し合います。
そして、20日に設楽原に撃って出ることに決定し、21日の設楽原の合戦を
むかえます。
簡単にまとめると・・・
5月8日:武田軍長篠城を囲む
5月13日:織田信長岐阜を立つ
5月14日:鳥居強右衛門長篠城脱出
5月15日:鳥居強右衛門50キロ離れた岡崎城到着援軍要請
5月16日:鳥居強右衛門長篠城前で織田、徳川の援軍到着を伝え、磔にされ
る
5月18日:織田、徳川連合軍設楽原に着陣、陣地を構築開始
5月19日:武田軍軍議を開く、設楽原に進軍決定
5月20日:武田本体は城の包囲をとき、設楽が原へ進軍
酒井忠次は鳶が巣山砦へ向かう
5月21日:設楽が原で両軍激突
午後武田軍敗退。勝頼多くの将兵を失い、逃走
織田信長は武田軍、長篠城に向かうの報を受けて、鳥居強右衛門の援軍要請の
前に、徳川家康の援軍要請を受け、岐阜を出立して、16日には岡崎周辺につ
いていました。
しかし、直接長篠城に向かうのではなく、18日の段階でその手前の設楽原で、
陣地を構築し、武田軍が来るのを待ちます。
そして、武田軍は織田、徳川連合軍が待ちうける設楽原に向かいます。
ここでポイントは、1572年の三方が原、1574年の高天神城と2度に渡り徳川
家康の援軍要請に対して、三方が原では織田の援軍は少数。
高天神城の際には援軍を派遣していませんでした。
その翌年の1575年に武田勝頼が長篠城に進軍した際には、今回も織田軍の援
軍は来ないと考えたのかもしれません。
それに反した信長の迅速な行動。
次に、援軍にむかった割には、直接長篠城に向かわず、その手前の設楽原で陣
地を築く。
なぜ、長篠城に向かわなかったのか?
逆に、なぜ武田軍は2倍以上の勢力の織田、徳川連合軍に向かっていったのか?
まとめると、
1.なぜ、今回は迅速に援軍に行くことを決めたのか?
2.なぜ、長篠城まで援軍に行かずに、武田軍が設楽原に来るのを待ちうけた
か?
3.武田軍はなぜ、設楽原に進軍したのか?
この3つの謎が分かれば、より設楽原の合戦の醍醐味に迫れると思います。
・・・が、ここからは完全に某の想像なので、間違っているかもしれません(ち
ゃんと古文書にあたってないので・・・)。
まず、今回の信長の援軍は迅速です。
3万もの軍隊をあっという間に岡崎まで移動します。
前もって準備していないとこれほど迅速に3万からの軍を移動できないと思い
ます。
さらに、鉄砲の準備もしていたようです。
着々と準備をし、武田軍動くの情報をいち早くキャッチしたのでしょう。
桶狭間から始まる信長の諜報能力は高いものがあるのかもしれません。
一方、武田勝頼の諜報能力はどうしても信長ほどではないのかもしれません。
少なくとも、今回の織田信長の軍勢が3万だったのに気づかないのですから。
残念ながらあまり専門書を調べていないので、なぜ信長がこんなにすばやく、
しかも本気モードで岡崎に向かったのは分かりません。
ただ、準備だけはしっかりしていたのは分かります。
続いて、なぜ、信長は設楽原で進軍を止め、そこに陣地を築いたのか?
あ、これもよく分かりませんでした。
・・・えらそうに書いていながらすみませぬ(−−)
ただ、直接長篠城に向かったところで、武田軍との間には豊川があるので効果
的な援軍にはなりえなかったことは想像できます。
図に書くとこんな感じ。

戦術の基本としては渡河中に攻められると非常に危険です。
さらに、川を背後に布陣するのは背水の陣といって逃げ道がなくなるのでこれ
また非常に危険です。
長篠城に援軍に行きたくても行けばいったで逆に武田軍にやられてしまいます。
設楽原で待つほうが安全なのは確かです。
助けに行きたくてもいけない。
長篠城はそのまま見殺しか?
では、どうすればいいのか。
そうならないために、20日に酒井忠次が4000の兵で鳶が巣山砦を背後から
襲います。
また、武田軍が豊川を逆に渡って攻めてきたら好都合です。
今度は武田軍が川を背後にして背水の陣になってしまいます。

それでは、なぜ武田軍は通常、不利だといわれている背水の陣になってまで豊
川を渡り、織田、徳川連合軍が待ちうける設楽原にむかったのでしょうか?
新城市設楽原歴史資料館には、設楽原合戦の前日、織田信長と武田勝頼の手紙
が残っています。
・・・が、全文訳が読みたいところですが、古文書なので全然意味がわかり
ません(TOT)
一応、ごく一部だけ説明がしてあります。
まずは、武田勝頼の手紙の一部に「敵失行之術」という記載があります。
これは、桜井家文書に残された手紙で、敵(織田、徳川連合軍)はどうしてい
いか分からず、戦の手段を失い、途方にくれているという内容だそうです。
偵察隊の設楽原に布陣した信長軍が柵などを作り、撃って出ようとしないのを
見て、織田、徳川軍、臆したかっ! と思ったのではないかと「設楽原史要」
を書いた、牧野文斎は考えたようです。
つまり、柵構築は敵が戦う前から戦意を喪失した証拠で、それに老将達も同意
したのでは、だから、野戦をする絶好のチャンスだと。
さて、どこまで本当か分かりませんが、今まで経験した野戦では、川中島、三
方が原など大規模の野戦では圧倒的な強さを誇った武田軍。
今回も織田、徳川連合軍に勝てる見込みがあると思ったのでしょうか。
しかし、徳川氏(8千)だけならその計算も成り立ちますが、織田の援軍を3
万も来ないと思ったのは大きな間違いだったと思いますが・・・
(ここら辺が勝頼の諜報能力に弱さを感じてしまいます)
一方、同じブースに織田信長の手紙も展示されています。
同じく決戦前日。
多分、武田軍豊川を渡るっ! という情報を得てから書いたのでしょうか、そ
の内容は自信たっぷりな内容。
「此節根切眼前候」(細川家文書)
訳すと・・・敵の根を切るのは目前というものです。
まさに、設楽原の合戦の大勝利を予言した手紙です。
史実はこの信長の予言どうりに織田、徳川連合軍の圧倒的勝利に終わるのです
が、なぜ、勝頼の予想は外れ、信長の予想は当たったのか。
その最大のポイントは「豊川を渡った方が敗れる」ということが考えられるの
かもしれません。
しかし、そんなことは歴戦の勇士、武田家の名だたる老臣が気づかないはずは
ありません。
ここも結局今回ははっきり分かりませんでした。
織田軍が柵を作ったことで安易に戦意なしと思い込んでしまったのであれば、
その予想を覆した信長の陣地構築は野戦をする上でも新しい戦い方を示したの
かもしれません(某は鉄砲云々より、この陣地設営の方に興味をひかれていま
す)。
次回は、この設楽原の実際の戦闘について考察してみたいと思います。
それでは〜