皆さん、こんにちは。
霧隠です。
先日、所用のついでに宇都宮城に行ってきましたので、ご報告したいと
思います。
まずは、前振りもなく物語スタート。
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「なんたる失態!」
宇都宮藩主戸田忠恕は、つい4日ほど前まであるじだった宇都宮城を腹
立たしく見つめていた。
ときは、慶応4年、4月。
大政奉還後、江戸城は無血開城を果たして、明治政府軍の意気があがる
なか、対する旧幕府軍は、大鳥圭介を中心として2000人が終結し、2手
に分かれ江戸から北上を開始します。
先鋒隊として一方の幕府軍を指揮した新撰組の土方歳三は、4月19日
宇都宮城を攻撃し、城を守っていた宇都宮軍、烏山軍も交戦しましたが、
急をつかれ夕方には土方ら幕府軍に宇都宮城は占領されてしまいます。
宇都宮城主、戸田忠恕は命からがら城内から脱出し、農民の姿に身をや
つし、明治政府軍主力の大山弥助(巌)と合流します。
明治政府軍は、22日には壬生城を攻略。
翌日23日には宇都宮城に総攻撃をかけます。
当然、先陣はかってしったる宇都宮藩。
さらに城主の戸田忠恕は、譜代大名にかかわらず根っからの勤皇思想の
持ち主。
明治政府に恭順を示しており、ここは居城を奪われた汚名を何としても
挽回し、勤皇のお役にたちたい。
その思いが、最初の言葉に現れた訳です。
総攻撃に際して、宇都宮藩は六道口から攻撃しましたが、幕府軍の激し
い抵抗に合い、一時押し戻されてしまいます。
薩摩軍の援助を受け、なんとか六道口を突破した明治政府軍は、その後
三方向から宇都宮城を攻略し、寡兵いかんともしがたく、ついに幕府軍
は北側の二荒山神社を抜けて八幡山に逃れ、さらに東北に向かい落ち延
びていきます。
このときの戦いで、宇都宮城はもとより、1100年の歴史を持つ、二荒山
神社の境内も焼け落ちてしまいます。
さらに、このときの火災は城下町も容赦なく焼き払い、本多正純公が築
き上げた15万石の城下町も廃墟と化してしまいます。
かくして、このときの戊辰戦争の戦禍で石垣で守られた門、8つの櫓と
高い土塁、堀をもつ風格ある城、宇都宮城も灰になり、その遺構を残す
ものは現在、「御本丸公園」だけになってしまっています。
なお、城主、戸田忠恕は、この戦いの無理がたたり、22才という若さ
で4月27日に急死してしまいます。
【参考文献:「宇都宮市」第6巻を要約】
↑清明館でこのコピーをもらえます
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う、宇都宮城にこのような悲しい物語があることを下野にいながら全く
知りませんでした。
お恥ずかしいかぎりです。
この宇都宮城には、現在「御本丸公園」と大イチョウしか、その遺構を
残すものはありません。
その、御本丸公園ですが・・・
み、みごとになんにもないです。
予想していましたが、ぱっとみただの整備されていない広場、いや、も
っと悪くいってしまうとただの空き地。
か、関東7名城に数え上げられているのにぃ。
あまりにもむごいその遺構。
ただもう涙なくしては見れませんが、minakaさんが教えてくださいまし
た、清明館に行くと、最近その魅力に気づかされた「城下町の模型」が
ありました!
す、すごい。
すごすぎる〜
みごとな城下町です。
お時間のある方は、こちらをどうぞ。
「宇都宮城を復元、市民のシンボルに」
この古地図を見るとわかりますように、宇都宮城は、本丸、二の丸、三
の丸をそれぞれ水堀がしっかり囲っており、そのまわりの日光街道沿い
に城下町が築かれており、日光東照宮に参拝する将軍の宿泊城としての
機能も備えた、堂々たるお城だったことが分かります。
この宇都宮城。
歴史は大変古く、1063年に藤原氏の一族である、藤原宗園公が築いたと
言われており、その後、宇都宮の姓を名乗り、通字「綱」を受け継ぎ、
25代国綱公の際に、豊臣秀吉公に滅ぼされ500年の長きにわたる下野
の支配を終えます。
その後、各大名が入部し、1619年、本多正純公が15万石の大名として入
部し、天守閣はもとより、石垣で守られた門、8つの櫓と高い土塁、堀
をもつ風格ある城を築き上げます。
この宇都宮城、模型を見るとありし日の城下町がよく分かります。
お城の左側に日光街道が続いており、その街道沿いに街並みができてい
ます。
徳川将軍も訪れたであろうこの街道。
当時はとても栄えた事でしょう。
(何にもない)本丸公園にたち、目を閉じるとそのときの活気ある街並
みがよみがえってきます。
また、このお城の仮想敵国は東北外様大名で、城門も北に向かって、大
手門、太鼓門、表門、清水門と石垣に囲まれた4つもの枡形門があり、
三の丸、二の丸が行き手をさえぎり、本丸の備えになっています。
対する南側は、裏門があり、そこを抜けると本丸に通じる伊賀門が一つ
あるだけです。
ただ、両方とも深く、広い水堀がありますが。
さらに、このお城の特徴は、関東のお城を代表する「土塁」のお城で、
関西のお城によく見られる「石垣」は門の周りと、一部の堀にしかなか
ったようで、お堀に石垣が写るという見栄えのあるお城ではなかった・
・・と当の清明館の説明にもあるくらいです(TOT)
で、でも、天守閣こそ本多正純公のときしか存在してないそうですが、
それ以外に四隅には櫓がそびえたち、その間を塀がしっかり取り巻く一
大近世城郭だったことが古地図からもよく分かります。
な、なのに、今は当時の姿は全くありません。
「全く」です。
ただ、古地図と詳細な模型を見て「想像(空想ともいふ)」するのみで
す。
そんなお城好きのために(?)、宇都宮市も立ち上がり、平成18年を
めどに我らが下野の国の唯一の城郭建物(櫓)を復元する計画があるよ
うです!
さきほどのHPに詳細が書かれておりますが、清明台、富士見櫓と、土
塁や堀、築地塀を復元する計画で、土塁は高さ約6m。その上に2層構
造の櫓(約10m)を建て、合計の高さは5階建てのビルに相当するもの
を作るようです。
ぜひともがんばってほしいものです。
その後、三の丸の土塁の上に凛然と立ちつくす「大イチョウ」を見て、
感慨深い宇都宮城を後にしました。
もうすでに何にも遺構が残されていないお城でも、その背景や古地図、
模型を丹念にながめることで、十二分に楽しめることが分かってきた
今日この頃です。
以上で宇都宮城の報告を終えたいと思います。
とりとめもない文章を長々とすみません。
最後まで読んでいただきありがとうございました。