堺市周辺にある超巨大前方後円墳群



登録運動の有無:2007年に文化庁の暫定リスト公募に応募。10年、暫定リストに記載!

登録の可能性評価★★★(高)

所在地:大阪府堺市、松原市、羽曳野市ほか


【世界遺産に登録できるか?】
  この超巨大前方後円墳が世界遺産クラスの構造物であることは明白です。
文化的にも、歴史的にも、土木工学的にも、社会学的にも、 当時の日本を代表する一級の考古遺跡です。 おそらくこのHP来訪者でこの物件が世界遺産級でないと考えるような方はいないと思います(いたらモグリ)。 ただ不思議なことに大阪の人でこの遺跡群に関心がある人って案外少ない気がします。 ほとんど見向きもされていないというのが率直な感想です。 王塚古墳も地元では同様なのですが、 古墳時代の歴史的価値そのものが、 まだあまり認識されていないようにすら感じます。 私は古墳時代こそ日本という国家が完成した、 日本の歴史の原点と考えており、 一番魅力的な時代です。 また日本書紀や古事記、 続日本記などで、 ぼんやりとではありますが、 歴史的考証も可能なのです。 弥生時代はそうはいきません。 文字が無い縄文時代ならなおさらです。(個人的には、 縄文時代の遺物に甲骨文字なんかが書かれたものがそのうち発見される気がしていますが・・)。

  最近の研究で、 古墳時代の年代が早まりつつあり、 中には3世紀初期という説もあります。 古墳は6世紀中葉の仏教の伝来とともにあまり造れなくなり、 8世紀には古墳築造が終焉します。 ですから古墳が精力的に建設された期間はせいぜい200〜300年くらいです。 その間に東北以南の全国に30万以上の古墳が建設されました。 当時のわが国の人口は300万人から500万人ですから、 その数の多さは驚くべきものです。 当時の社会には奴隷階級もいましたので、 それを考えると、 奴隷以外のほとんど全ての日本人は、 古墳の大小に差こそあっても、 なんらかの形で古墳に埋葬されていたと考えるべきです。 問題は、 なぜ400メートルを越える大山古墳ような巨大な古墳も存在したか、 そしてなぜ建設できたのかという点ですが、 私は、 墳墓を築造して埋葬するそのような形態が既に弥生時代から墳丘墓として存在していたが、 ただ金属器など道具が不足していたため巨大なものを建設したくても技術的に困難だったものが、 古墳時代になって鉄器などの金属器が一般庶民にもある程度普及した結果、 それに呼応して急速に古墳が大型化したと考えています。 ですから渡来人が来たからなどの対外的なことに要因があるのではなく、 そういう巨大な墳墓を建設したいという願望は昔からあって、 それが箸墓古墳を機に畿内に一気に普及し、 やがて全国にすごい速さで浸透したものと考えています。

  関西の古墳を研究するには、 土器の変遷などよりも、 当時の労働人口や鉄の生産量の予測など、 もっと当時の技術水準を探るようなアプローチが必要な気がしています。 大山古墳にかぎらず日本には200メートルを越える前方後円墳・前方後方墳が約40基以上もありますが、 大阪南部一帯には特に巨大な古墳が密集しており、 またそういった古墳がどれも1500年以上経っても形が全然壊れていません。 これは当時の古墳築造技術が世界的に見ても驚嘆すべきレベルにまで到達していた証拠です。 しかもそういう巨大古墳が複数存在することはもっとすごいことです。 よく古墳時代の日本の文化水準や日本人像を、 魏志倭人伝の記述から想像される水準と大差ないように感じている人も少なくないでしょうが、 巨大古墳や人型埴輪の服飾などをみると、 その認識が間違っているように感じます。 中国の記述を全く考慮しないで素直に考えたら、 当時の日本(倭)にはかなりの国力があったと見るべきです。 これは誇張ではなく、 世界史的視点で捉えたらそうなるのです。 ですから関西の巨大古墳を世界遺産に運動するなら、 そういう視点ももっとアピールした方がいいでしょう。 そう思います。(著=収斂)

2003/02/08



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