オセアニアの「世界の記憶」



・説明文は原則としてUNESCO公式サイトからの抄訳です。一部、ほかの資料を参考にしたものは文末に注記しました。
・写真はすべてUNESCO公式サイトからの転載です。各写真に転載元のリンクを貼っています。


■オーストラリア
  名称 登録年 説明
ジェームス・クック日記
The Endeavour Journal of James Cook
2001 176871年のジェームス・クック(172879)の最初の航海記。クックは西洋人として初めてオーストラリア大陸東海岸に到達し、ニュージーランドにも上陸した。それは、1788年に始まる英国のオーストラリア植民の前兆でもあった。
マボ判決の原本
The Mabo Case Manuscripts
2001 1992年6月、オーストラリア最高裁で下された「オーストラリア大陸はもともとアボリジニの土地である」という判決が、マボ判決である。その名はオーストラリアの民族活動家エドワード・コイキ・マボ(193692)にちなむ。マボ判決は先住民の権利を認めたものとして世界史上珍しい存在で、きわめて重要である。
オーストラリアの囚人記録
The Convict Records of Australia
2007 17881868年にかけて、オーストラリアには16万人以上の人々が強制移送されたが、その多くがブリテン島とアイルランド島の囚人だった。結果的にはこの政策により、オーストラリア先住民の生活や文化が破壊されていったわけだが、この収監の過程は19世紀の公文書に克明に記録されている。囚人の身体的特徴から読み書きのレベル、職業、罪名、判決内容まで、さらには獄中での態度、恩赦、結婚までが書き著されているのだ。
『ケリー・ギャング物語』(1906年)
The Story of the Kelly Gang (1906)
2007 実在のギャングをモデルにした、上映時間60分以上になる世界初の長編物語映画。その後の長編映画のひな形となった。オーストラリアの映画産業の象徴であるとともに、オーストラリア人のアイデンティティの萌芽を教えてくれる作品でもある。現存するオリジナルフィルムは約17分。
→この作品を見る Youtube:The Story of the Kelly Gang (1) (2)
クイーンズランド州民に向けたクイーンズランド労働党宣言(1892年9月9日付)
Manifesto of the Queensland Labour Party to the people of Queensland (dated 9 September 1892)
2009 ストライキが暴力的に鎮圧されたのち、労働運動がその目標を、議会代表を通じて政治的権力を獲得する方向に移行した第1段階を示すもの。著名な党員チャールズ・シーモア(18531924)が執筆し、クイーンズランド初の労働党議員となるトマス・グラッシー党首(18441936)のサインがある。ちなみに世界初の労働党政権は、1899年にクイーンズランドで誕生している。
参考/『外国の立法』09年10月



■ニュージーランド
  名称 登録年 説明
1893年の女性参政権の請願書
The 1893 Women's Suffrage Petition
1997 「国家」や「参政権」の定義はともかく、ニュージーランドは一般的に、「世界で初めて女性参政権を認めた国」といわれている。この請願書には、当時のニュージーランドの成人女性のおよそ4分の1が署名し、女性参政権の導入を決定づけた。同種の署名として、ニュージーランドはもとより、西側諸国で最大規模のものとされる。
ワイタンギ条約
The Treaty of Waitangi
1997 1840年に、ニュージーランドの植民地化をもくろむ英国政府と、45人のマオリ族長との間で交わされた条約。前文、後文と3カ条の条文からなる。最初に英語版が書かれ、調印に際し宣教師がマオリ語に翻訳した。しかしマオリ語に該当する単語のないものは割愛するなど不十分な翻訳だったため、両版の解釈の違いが100年以上にわたってくすぶり続けることになる。
最も大きな食い違いが、財産の所有権に関する部分。土地やその他の財産について、英語版では「マオリ人の所有を保証する」と書かれている。同じ部分のマオリ語版を英訳すると、「首長の権限を保証する」となり、マオリ人の権利をより大きく認めているものと解釈できる。このため英国人はニュージーランドを植民地と見なしたのだが、マオリ人は、ある首長が語ったように「土地の影はヴィクトリア女王までのびるが、実物はわれらの手に残る」と考えていた。
ともかく、条約は1840年2月6日に北島のアイランド湾に面するワイタンギの地で調印された。このとき署名されたものをはじめ、条文を複写したシートは全部で9点ある。島内各地で追加署名するために作成されたもので、各シートは署名地の名で呼ばれている。唯一英語で書かれているのが「ワイカト・シート」。最初の条約調印がなされた「ワイタンギ・シート」はネズミの食害を受け、破損が著しいが(左写真)、ほかの8点は良好な状態で保存されている。
参考/内藤暁子著「未来への指針 再評価されたワイタンギ条約とマオリの戦略」



■フィジー
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インド人移民労働者の記録
Records of the Indian Indentured Labourers
2011 年季奉公契約を結んだインド人労働者は、1830年代から移民として世界各地にわたり、その後の100年間で119万人以上が19地域に移住した。この記録は、これらインド人移民の血統を示す唯一の資料。4カ国の国立公文書館が保管する1838〜1962年の書類一式が登録された。
※フィジー、ガイアナ、スリナム、トリニダード・トバゴ共同登録




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