タリアセンとタリアセン・ウエスト
Taliesin and Taliesin West


国名 アメリカ合衆国
分類 文化遺産
所在地 タリアセン……ウィスコンシン州。州都マディソンの西およそ50km、スプリング・グリーン
タリアセン・ウエスト……アリゾナ州。州都フェニックスの東郊、スコッツデイル

 

 


 ▲タリアセン・ウエスト
Photo credit:Fine Arts Department
   
審議歴
1982年

「タリアセン」暫定リストに記載。

1990年

「タリアセン・ウエスト」暫定リストに記載。

1991年 登録延期 … これらの建物と同時代の建築物に関する比較検討の結論が出ていない。
2008年 「タリアセン」「タリアセン・ウエスト」暫定リストより削除。
同年暫定リストに記載された「フランク・ロイド・ライトの建築群」に一括化された。



解説/文=収斂さん

米国の近代建築を確立した英雄、F・L・ライト

  フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)は、アメリカの近現代建築、すなわち「民主的アメリカ建築」を確立し、それまでのアメリカ富裕上流社会に多く見られたヨーロッパ様式の建築から、アメリカ建築を自立させることに成功した英雄とみなされている。そしてそのことは、いまでも高い評価を得ており、彼の作品はアメリカ合衆国の貴重な建築文化財として、保護の対象になっているものが多い。

<注意1>作品番号は、フランク・ロイド・ライト研究の第一人者である、ウィリアム・アリン・ストーラーが再編したものを使用した。

  彼が生きた20世紀初頭の建築は、それまでの様式中心の流れからの脱却が叫ばれ、混沌としており、機能性重視の建築、および一般大衆向けの住宅の模索がなされた時期でもあった。
  ライトは「部屋(room)」について、中国の老子の言葉を引用して「住むための空間」と定義した。そして彼の本質的特徴ともいえる、「グリッド(grid)」という手法を考案した。現在でも使われる 2
×4 という建築手法は、彼の「ユニットシステム」の応用である。彼はこのグリッド工法を、まだ建築家になったばかりの19世紀後半に考案しており、それはやがてコンクリートブロックを使ったものに進歩する。そして1901年建築のウォード・ウィリッツ邸(作品054番)で、最も単純な正方形ユニットを使ってこれを実践した。この正方形グリッドの使用が、プレーリー建築の特徴ともいわれている。
  彼は1925年に「私が手がけたすべての建物は、大きなものも小さなものも、ユニットシステムに則してつくられている」と宣言している。彼は自分の建築を指して、「典型的プレーリー風車型」、「右巻き風車型」、「左巻き風車型」、「右巻き十字型」、「左巻き十字型」のような、プレーリー造形言語というものまで考案した。

  ちなみにこのユニットシステムは、日本建築に見られる「畳」という概念にきわめて近い発想である。すなわち、畳の枚数で部屋の広さが規定され、ふすまや障子の寸法も畳の長さと対応させることで部屋の高さも決まり、柱の数から構造までが、互いに相互作用しているのである。
  彼は日本文化に憧憬を抱いた、当時としては珍しいアメリカ人だった。1905年、彼は東アジアを初めて旅行し浮世絵に感銘を受けたという。また彼は、「日本の芸術は徹底して構造的な芸術である。この構造が最も重要なものであるという認識はまた、デザインを真に理解するいかなる場合にも、そのごく初期の段階においてなされる。そして構造の始まりにおいては、つねに随所に幾何学が存在する」と、自叙伝で述べている。彼の作風にはその後、切妻屋根をした「日本的」建築様式が多く見られることになる。なおこの時期、彼は中産階級の住宅建築に主眼を置いていた。


平均的な米国人のための「ユーソニア建築」

  彼の作風は、プレーリー建築からユーソニア建築、有機的建築と進化していく。ユーソニア建築(Usonia : United States of North America)とは、もともとは英国の作家サミュエル・バトラーの造語だが、ライトが使うユーソニア建築とは「住むための空間」という意味であり、平均的なアメリカ人のための建築という感じが強い。よって構造上のものではなく、むしろ哲学に近い。この理想を実現するために用いられた手法が、ユーソニア的と解釈されている。ただし定義はいろいろあるのも事実である。

  ユーソニア建築では、最も重要な空間として「居間(living room)」、すなわち家族全員が共有する空間をかかげ、住宅建築の中心にすえる。そのため一般的に居間が最も大きい部屋として設計され、副次的活動領域である仕事場、台所は小さい。
  居間には採光の目的から、床から天井までを全面ガラス張りにした仕様(window wall)が多く見られ、ユーソニア建築の特徴とまでいわれている。ほかにもユーソニア建築の特徴として、床暖房が仕込まれたコンクリートスラブの床(gravity heating)、組積造のコア、ウィング端部の組積造の支柱などがある。特に「床暖房」は、彼が帝国ホテル(本館=作品194番、別館=作品195番)を設計するために、東京の大倉男爵の邸宅ですごしたさいの、湿気の多い冬の経験がもとになっているといわれ、これがその後の空調システムの発展に大きな影響を与えたという。ほかにも具体的なユーソニア建築の特徴の一つが屋根であり、切妻屋根、寄棟屋根、陸屋根(平坦な屋根)、対角切妻屋根などがある。

  ユーソニア建築は大恐慌時代の安上がりな住宅建設として普及し、そのなかでもL形プランユーソニア住宅が典型例だ。これはアクティブ空間(living room etc.)と 静空間(bed room)が、互いに90度直角に配置され、敷地の一部を囲い込んでいる。晩年のライトは、カリフォルニアのブロック住宅群(作品214−217番)とリチャード・ロイド・ジョーンズ邸(作品227番)こそユーソニア建築の最初と明言している。またリチャーズ住宅群(作品201-204番)の「プレハブ住宅」に見られるような、むだのない合理的な手法もユーソニア建築と見なされている。そして傑作の多くが、このユーソニア時代に集中している。

  「有機的建築」とは基本的に、プレーリー建築からユーソニア建築までの特徴をすべて含んだものと理解すればよいだろう。合理的でむだがなく、空間全体がそれぞれ機能的で、価格も施主の意志に沿ったもの、ただし建築は美しくなくてはいけない、という考え方である。
  「機能と形態は一つである。ただし美こそが第一原理である」という言葉が最も明確な定義かもしれない。だから「幾何学的に有機的」とは、高価な材料でも、安価な材料でも、同じデザインの建物が建設できるということでもある。


500以上の建築作品と2万点以上の図面を残す

  ライトはよき指導者でもあった。彼のもとでは多くの建築家が育っている。例えばウォルター・バーリー・グリフォン、バリー・バーン、マリオン・マーフニー、ウィリアム・ドラモンド、ジョン・H・ハウ、カール・カムラス、アーロン・グリーン、ウィリアム・ウェスリー・ピーターズ、ニルス・シュバイツァー、ジェームズ・フォックス、モートン・デルソン……などがそうだが、このほかにも多くの建築家が彼の有機的建築を受け継いでいる。なかでも ジョン・H・ハウの建築が、最もライトのものに近いという。
  ライトが手がけた作品は2万以上も図面が残っているが、その中で実現したものだけでも500個近くもある。彼の作品はアメリカ合衆国国内はもちろん、外国にも少なくない。しかし彼は、その生涯を通じて、アメリカ合衆国政府や州の行政庁から依頼を受けたことはほとんどなく、それが実際建設されたことはさらに少なかった。ライトが直接手がけ、唯一の完成した合衆国政府の建物が、マリン郡シビックセンターの建築群のなかの郵便局(作品415番)だけであるのは意外である。なおマリン郡シビックセンターのプロジェクトはアーロン・グリーンが監督し、ウィリアム・ウェスリー・ピーターズも、庁舎(作品416番)と裁判所(作品417番)の設計に参加した。

  ライトの建築を語るなら、タリアセン*とタリアセン・ウエスト*だけでは全然たりないだろう。むしろライト自邸(1895年当時)、モリスギフトショップ、バーンズドール邸、エニス邸、ハナ邸(ハニカムハウス)、ジョンソン・ワックス・ビルおよびジョンソン研究棟*、ダナ邸、ユニティ・テンプル*、ロビー邸*、カウフマン邸(落水荘)*、グッゲンハイム美術館*、プライス・タワー*、ベス・ショ−ロム・シナゴーグ、ギリシャ正教会、マリン郡シビックセンターの建築群*、ガメージ記念講堂などが、とくに重要になる。これらの多くがアメリカ建築会協会により、「アメリカ文化へのライトの建築的貢献の例として保存すべき17の建造物」として保存されている。

  *これら9作品に、ホーリーホック邸を加えた10作品が、2008年に「フランク・ロイド・ライトの建築群」として暫定リストに記載された。

 

地元の建材でつくられたライト自邸の「タリアセン」

  タリアセンはタリアセン・ウエストと対比するため、タリアセン・ノースとも呼ばれる。タリアセンとは「輝く頂」という意味のウェールズ語である。しかし現在はライトの自身が住んだ家や、フェローシップを招いた場所を指す意味で使われることがある。
  タリアセンは火災によって2回も焼失した。そのためタリアセンは設計された順にタリアセン第一、第二、第三と分類される。現存するのはタリアセン第三である。

タリアセン第一(作品172番)
  これは1911年に ライトの母のアンナ・ロイド・ジョーンズ・ライトの住まいだったものを、ウェールズ出身の人たちに提供したもので、ライトが最初に設計したユニティ・チャペル(作品0番)や、ヒルサイド・ホームスクール(作品69番)の近くにあった。
  タリアセン第一は1914年8月15日に、シカゴ出身の使用人ジュリアン・カールトンという男によって放火され、当時そこの住居部分に住んでいたママ−・ボースウィックとその子供など数名が焼死するという悲劇が起こった。

タリアセン第二(作品182番)
  火災で焼失したタリアセン第一は、その基礎の組積造部分はほとんど影響を受けていなかったので、基礎部分をそのままに再建されたのが、タリアセン第二だ。1914年の再建工事では、新たに建物の拡大と細部の変更がなされたが、残念なことにこれも25年に焼失した。

タリアセン第三(作品218番)
  現存するライトの自宅で、1925年に完成した。しかしその後も細部は改造をくり返した。とくにタリアセン第二の焼失後、西側に大規模な増築を行っている。建物は大部分が地元ウィスコンシンの石灰岩、木材、漆喰で仕上げられている。また庭園も有名で、ライトの寝室の南には幾何学的なテラスを、45年には庭の一部にある谷間に堰を造り、小さな池(作品219番)をつくった。さらに60年にはライト夫人のために「囲われた庭」(作品220番)を増築している。これらの庭もライトの作品と見なされている。
  タリアセン(タリアセン第三とその庭)はライトの設計した傑作の一つであり、アメリカ建築会協会により、「アメリカ文化へのライトの建築的貢献の例として保存すべき17の建造物」 の一つに数えられている。

<注意2>ニューヨークにあるホテル・プラザ・アパートメント808号室の改装(作品381番:1954年)は、第三タリアセン、もしくはタリアセン・イーストとも呼ばれる。これはライトがニューヨークとコネチカット州の大規模プロジェクトを遂行するため、ニューヨークに滞在した期間だけ使用されたホテルの部屋のことで、彼の滞在期間中、ライトは自分の感性に合わせて部屋を改造した。
  たったそれだけのことだが、このプロジェクトによってグッゲンハイム美術館 (1956年:作品400番)のような大傑作が生まれたため、このホテルの部屋の改造もライトの作品と見なし、第三タリアセンという呼称が付けられた。しかしこの部屋は68年に取り壊された。

 

 


 ▲タリアセン
Photo credit:Fine Arts Department

 

「タリアセン・ウエスト」で試されたプレーリー建築

  タリアセン・ウエストは、タリアセン・フェローシップの冬の家として1937年に設計された。「アリゾナの砂漠の素材を建築にどう生かすか」という命題に対して、さまざまな有機的な試みがなされた、ライトのプレーリー建築を代表する傑作である。この建築が与えた影響は計り知れない。設計はスケッチに正方形の入れ子単位とし、それをもとに建物を幾何学的に配置し、大きさはその正方形を一単位として連続的に伸ばしていく。このようなユニットを使った建物の設計は、ライトの建築の本質的特徴であり、彼は、他の多くの建築で三角形、長方形、六角形のユニットをもとに設計を行った。
  砂漠の石を使った壁は、通称「砂漠の素石の壁」と呼ばれ、型枠内にランダムに配置した石にコンクリートを流し込み、石の表面を型枠から露出させ、施行後に余分なモルタルを削るという独創的な工法を採用している。ほかにもアリゾナの乾燥した暑さに対処するさまざまな試みがなされた。
  タリアセン・ウエストは第二次世界大戦後、フェローシップの組織の増加にともない、増築された。キャバレーシアター(1949年:作品243番)やミュージックパビリオン(1956年:作品244番)などがそうである。
  現在、タリアセン・ウエストは、タリアセンと同様「保存すべき17の建造物」に数えられ、フランク・ロイド・ライト財団の常駐スタッフとタリアセン研修生が、見学の案内を手助けしている。また、いまでもフェローシップが1年の大半をここですごし、ライトの有機的建築について勉強している。






ヨーロッパ・北米の裏世界遺産目次へ

裏世界遺産の館目次へ