ベナンの奴隷の道 Route de l'Esclave au Bénin
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解説/文=好古学のすすめさん 15〜19世紀の奴隷貿易は、大西洋をはさむヨーロッパ、アフリカ、アメリカの間のいわゆる三角貿易として行われた。関係する世界遺産として、アフリカ側には1978年登録のセネガルの「ゴレ島」や、79年登録のガーナの「ヴォルタ州、グレーター・アクラ州、セントラル州、ウェスタン州の城塞群」、2003年登録のガンビアの「ジェームズ島および関連遺跡群」があり、新大陸側には82年登録のハイチの「国立歴史公園−シタデル、サン・スーシ、ラミエ」、85年登録のブラジルの「サルヴァドール・デ・バイーア歴史地区」、99年登録のセントクリストファー・ネイビスの「ブリムストーン・ヒル要塞国立公園」がある。また、04年登録の英国の「リヴァプール−海商都市」は、奴隷貿易が廃止される1807年までは奴隷貿易の拠点港の一つだった。 ユネスコは、93年の総会でハイチとアフリカ諸国の提案を受けて「奴隷の道」プロジェクトを実施することを決定し、プロジェクトは94年にベナンのウィダで開催された会議で正式に開始された。99年から05年にかけて奴隷貿易アーカイヴの調査が行われ、03年にはバルバドスの「カリブ地域の奴隷関係文書遺産」が、ユネスコのメモリー・オブ・ザ・ワールドに登録されている。さらに、02年の国連総会は、04年を「奴隷制に対する闘いとその廃止を記念する国際年」と宣言した。04年は、西半球で初めての黒人による国となるハイチ革命の200周年にあたり、奴隷とされた人々の闘いと人間の自由、平等、尊厳の勝利を表している。 ベナンの奴隷の道は一国内のものであるが、世界遺産に登録されることは、ユネスコのプロジェクトや国際年の趣旨に沿った意義深いものになるであろう。
ベナン沿岸部を中心とするギニア湾岸は奴隷貿易の一大中継地として知られ、奴隷海岸と呼ばれた。ポルトガルは17世紀にこの一帯に10数カ所の砦を築き、交易の拠点とした。その一つが1680年に建てられた、ウィダのサン・ジョアン・バプティスタ・デ・アジュダ砦。当時ブラジルへ送られた黒人奴隷の多くは、この砦を経由していた。ポルトガルのほか、フランス、英国、オランダなどが砦を築いて奴隷貿易を行った。 1721年に再建され、1961年(ダオメー共和国[現ベナン共和国]独立の翌年)までポルトガル領だった砦は、現在は歴史博物館になっている。砦のある旧市街からラグーン地帯を通って海岸まで約4kmの道が、92年に「奴隷の道」と名づけられ、道に沿っていくつかのモニュメントが置かれている。船積み地点の砂浜には LA PORTE du NON RETOUR (THE GATE of NO RETURN) と記されたモニュメントが、ユネスコの協力で95年に建てられた。ここから奴隷貿易船に乗せられると、もはや帰れない最後の地点だった。 ウィダは伝統宗教のブードゥー教の中心地としても知られる。ハイチなど西インド諸島やアメリカ各地の黒人間に行われるブードゥー教は、奴隷貿易によって伝えられたものである。1993年に最初の世界ブードゥー芸術文化フェスティバル(ウィダ1992)が、「奴隷の道」に関連して開催された。
本物件の暫定リスト記載名は「ウィダ市:旧市街と奴隷の道」となっており、奴隷の道はウィダの4kmが対象と考えられるが、2001年の推薦時点では、「ベナンの奴隷の道」として内陸のアボメーからウィダまでの117kmが対象とされたようである。「アボメーの王宮」は1985年に世界遺産に登録されている。 アボメーを都として1625年ごろに建設されたダオメー王国は、アガジャ王(位1708-40)の時代に南下し、1727年に海岸地帯のウィダなどの諸王国を攻略した。強力な軍事力によって近隣から奴隷を調達し、ヨーロッパ人と直接の取引を行って火器を入手した。ベナンの奴隷の道は、調達した奴隷をアボメーからウィダの積出港に送るための道だった。この117kmの道沿いには市場や収容所などがあった。 19世紀にダオメー王国は、高度に中央集権化された軍事大国として、その繁栄の頂点に達した。奴隷貿易の退潮とともにヤシ油の輸出が主体となった。フランスは1848年、ポルトガルも1868年に奴隷制を廃止したが、19世紀末にはフランスにより、ダオメーを含む西アフリカ一帯が植民地となった。 なお、117kmの道のほか、港町コトヌー近郊で観光地となっている湖上集落のガンビエ(暫定リストにはウィダとは別に「ガンビエの湖上集落」として記載されている)が遺産に含まれる可能性がある。この集落は奴隷になることを嫌って逃げてきた人々が、18世紀はじめにつくったといわれている。
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