ヘラート市街と記念物群
The City and Monuments of Herat


国名 アフガニスタン
分類 文化遺産
所在地 アフガニスタン西部、首都カーブルの西およそ650km


審議歴
1983年 登録延期 … 専門家の派遣団によって、この遺産の保全状態や保護体制が報告されるまで、登録審議を延期する。
2004年 暫定リストに記載。


解説/文=ごんべーさん

ヘロドトスがたたえた中央アジアで最も豊かな土地

  ヘラートに人が住みついたのは5000年も昔のことである。灌漑農業が進み、中央アジアで最も豊かな土地だといわれたその文明の輝きは古代ギリシアまで届いていて、歴史家ヘロドトスはヘラートのことを「中央アジアのパンかご」とほめたたえている。
  歴史の夜明け以来、この地は文明の十字路として栄えた。ここは原始宗教ゾロアスター教の地であり、仏教系、ペルシャ系、トルコ系の美術と建築が建てられた世界最古の都市の一つである。巡礼者や商人たちがシルクロードを伝ってこの都市を訪れ、そして遠く中国やヨーロッパへと旅立っていった。ギリシア人たちもまたここを訪れ、ギリシア文化とアジア文化が出会い、その文明の輝かしい対話の中から新たな芸術が創造された。こうした豊かな文化的遺産の上に、さらにイスラムの文化が移植され、あでやかに華開いた。市の中心にあるモスクは
7世紀に築かれ、12世紀に再建された。1088年に没したヘラートの聖者ハワジャ・アブドゥラ・アンサリはイスラム神秘主義の詩人で、いまもなおアフガニスタンで人気があり、崇拝者がたくさんいるという。
  しかし、
1222年、この文化都市は地獄絵図となった。チンギス・ハーンの侵攻によりヘラートは攻略され、16万人の市民が殺害された。助命されたのはわずか40人。ヘラートはこのとき一旦壊滅した。


ティムール帝国の首都として復活を果たす

  しかし2世紀後、ヘラートは奇跡の復興をはたす。ティムール帝国の王、ティムールの第子シャー・ルフ(在位1409-47)が首都をサマルカンドから遷(うつ)したのだ。彼はペルシャ、インド、中央アジアから職人を集め、何十ものモスク、学校(マドラサ)、公衆浴場、図書館、宮殿を建設した。そして城砦を堅固にし、中心部にサマルカンドにならった壮麗なモスクを築いた。現在このモスクは崩壊してしまって残っていないが、当時の華麗さを物語るミナレットが、9本のうち3本残っている。ヘラートのバザールは復活し、精巧なじゅうたんや、宝石、武器、タイルや精密画が売られた。当時首相を務めたアリシェルは「ヘラートでは、足を運べば詩にぶつかる」と書いているが、かれ自身詩人で画家、作家でもあった。

  シャー・ルフ王の妃ゴワール・シャドの墓は、花模様のペルシャ青のタイルでおおわれ、青いドームには真っ白な文字でコーランが書きつけられ、世界でもっとも精巧なイスラム建築の一つだった。この墓を見た詩人のバイロンも「神と自らの栄光のために、人間がつくり出した、もっとも色彩の美しい建築の例だ」と述べている。シャー・ルフ王とその妃ゴワール・シャドはこうした美しい建造物を、300ほども建てたという。だが、これらの建造物の大半が1885年に英国によって破壊された。
  さらに1980年にソビエト軍がヘラートを爆撃して、モンゴル帝国による侵攻よりも大きな打撃を与えた。ソ連軍はイスラム戦士が近づけなくなるよう、この一帯を地雷源にした。今日ヘラートは、世界でもっともひどく破壊され、最も多くの地雷が埋められている都市だという。そしてその後ヘラートは、タリバーンの支配下に置かれ、圧制と暴虐の都になった





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