ヘラート市街と記念物群 The City and Monuments of Herat
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解説/文=ごんべーさん ヘロドトスがたたえた中央アジアで最も豊かな土地
ヘラートに人が住みついたのは5000年も昔のことである。灌漑農業が進み、中央アジアで最も豊かな土地だといわれたその文明の輝きは古代ギリシアまで届いていて、歴史家ヘロドトスはヘラートのことを「中央アジアのパンかご」とほめたたえている。
しかし2世紀後、ヘラートは奇跡の復興をはたす。ティムール帝国の王、ティムールの第4子シャー・ルフ(在位1409-47)が首都をサマルカンドから遷(うつ)したのだ。彼はペルシャ、インド、中央アジアから職人を集め、何十ものモスク、学校(マドラサ)、公衆浴場、図書館、宮殿を建設した。そして城砦を堅固にし、中心部にサマルカンドにならった壮麗なモスクを築いた。現在このモスクは崩壊してしまって残っていないが、当時の華麗さを物語るミナレットが、9本のうち3本残っている。ヘラートのバザールは復活し、精巧なじゅうたんや、宝石、武器、タイルや精密画が売られた。当時首相を務めたアリシェルは「ヘラートでは、足を運べば詩にぶつかる」と書いているが、かれ自身詩人で画家、作家でもあった。
シャー・ルフ王の妃ゴワール・シャドの墓は、花模様のペルシャ青のタイルでおおわれ、青いドームには真っ白な文字でコーランが書きつけられ、世界でもっとも精巧なイスラム建築の一つだった。この墓を見た詩人のバイロンも「神と自らの栄光のために、人間がつくり出した、もっとも色彩の美しい建築の例だ」と述べている。シャー・ルフ王とその妃ゴワール・シャドはこうした美しい建造物を、300ほども建てたという。だが、これらの建造物の大半が1885年に英国によって破壊された。 |