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写真提供=AGTさん (同じ青空の下で) |
解説/文=収斂さん アカイア人の文化とミケーネ文明の変遷を物語る
ヘロドトス(B.C.484−426)によって編纂されたギリシャ神話によると、古代のクリオン(ラテン語でCurium)は、ペロポネソス半島北岸に勢力をもつアカイア人の植民都市として建設された。 |
キプロスに王国が誕生したときも、クリオンは島で最も重要な都市だった。クリオンが歴史書に初めて登場したのは、エジプトの歴史書によればラムセス3世(B.C.1198-1167)の時代である。その中で当時、クリオンは地中海世界でもとくに重要な都市と記載されている。紀元前709年、クリオンの王は、他のキプロスの6人の王とともに、アッシリア帝国の王サルゴン2性(Sargon
II)に臣従の礼を示し、その忠誠の証として石碑を建てた。これは現在ベルリンの博物館に保管されている。そのころになるとクリオンは都市も拡大し、現在のエピスコピ村西部の丘陵地帯のパレオカストロ(Palaeokastro)くらいにまで及んだ。しかしその後王国は激動の時代に入る。
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現在クリオンに残るギリシャ・ローマ時代の主だった遺跡は次のようなものである。初期キリスト教時代の建築物は劇場(Theatre)、Nymphacum、泉の家(Fountain
House)、剣士の家(House
of
Gladiators)などが有名である。
これに、初期キリスト教会に多いバジリカ様式の建造物も少し含まれる。また例外として、エウストリオスの家(House
of
Eustolios)もこの時代に近いものだ。それ以外の建築物のほとんどは、ローマ時代のものである。また、クリオンから3.5kmほど西のパフォスへ続く道に沿って、城壁外バジリカ(Extra-Mural
Basilica)様式の建造物、ローマ時代の競技場、アポロの神殿(Sanctuary
of
Apollo)など、アルカイック時代からローマ時代晩期までの建築遺構が点在する。
クリオンではこのころからキリスト教が衰退してくる。最初のアラブ人の侵攻直後、司教のディオニシウス(Dionysius)が死ぬのだが、その後、司教の職は1051年にミハエル(Michael)が就くまで途切れてしまう。そしてその後もキリスト教はさらに衰退していき、1222年についにキリスト教の司教は完全になくなってしまう。
クリオン遺跡は現在も外国の研究機関を中心に精力的に発掘が行われているが、トルコとの緊迫した国際情勢から、貴重なローマ時代の建造物の修復が遅れている。そのため国際的な支援が必要とされている。また貴重な観光資源であるが、軍事的に緊張しているため観光客は少なく、対策が検討されている。 |