クリオンの考古遺跡
Archaeological site of Kourion

国名 キプロス
分類 文化遺産
所在地 首都ニコシアの南西およそ70km


審議歴
1984年 暫定リストに記載。
1985年 登録延期 … 地中海地域にある古代遺跡が、すでに多数世界遺産に登録されていることなどによる。
1995年 暫定リストより削除。


 



写真提供=AGTさん
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解説/文=収斂さん

アカイア人の文化とミケーネ文明の変遷を物語る

  ヘロドトス(B.C.484−426)によって編纂されたギリシャ神話によると、古代のクリオン(ラテン語でCurium)は、ペロポネソス半島北岸に勢力をもつアカイア人の植民都市として建設された。
  クリオン遺跡の発掘は、当初からかなり計画的に行われた。その結果、この遺跡は主に紀元前16世紀初頭から前11世紀中ごろにかけての長期間にわたって続いた都市遺跡であることが判明したが、とくに後期青銅器時代の特徴を伝える住居遺跡が多く見つかった。現在の遺跡の範囲は、エピスコピ(Episkopi)村の東約3.5kmの、Bamboula一帯である。
  とくに多く見つかる出土品は何といっても古代の陶器で、ほかに装飾品なども多く見つかっている。これはアカイア人の植民都市の特徴をよく示している。また、歴史書には紀元前13世紀後半と前12世紀の2回にわたって、キプロスにミケーネ文明が進出した記述があるが、クリオンの文明にもその影響がはっきりみられる。そのためクリオンは、古いアカイア人の植民都市の文化財と、ミケーネ文明浸透後の文化財が共に見られ、双方の文化的変遷を検証するのに重要な遺跡の一つである。


キプロス王国で最も重要な都市

  キプロスに王国が誕生したときも、クリオンは島で最も重要な都市だった。クリオンが歴史書に初めて登場したのは、エジプトの歴史書によればラムセス3世(B.C.1198-1167)の時代である。その中で当時、クリオンは地中海世界でもとくに重要な都市と記載されている。紀元前709年、クリオンの王は、他のキプロスの6人の王とともに、アッシリア帝国の王サルゴン2性(Sargon II)に臣従の礼を示し、その忠誠の証として石碑を建てた。これは現在ベルリンの博物館に保管されている。そのころになるとクリオンは都市も拡大し、現在のエピスコピ村西部の丘陵地帯のパレオカストロ(Palaeokastro)くらいにまで及んだ。しかしその後王国は激動の時代に入る。
  紀元前569年には、クリオンの王も含めたキプロスのほとんどの王が、エジプト王国の支配下に入る。そしてまもなく、前546年にはペルシャ帝国のキュロス(Cyrus)大王に降伏する。その後もクリオンは、プトレマイオス朝やローマ帝国に併合されていくのだが、不思議なことにこのころの歴史書には、クリオンの記述が一つも発見されていない。しかしクリオンからはそういった時代の遺物が多く見つかっているから、やはり重要な都市だったようである。
  やがて紀元3世紀になって、キプロスにもキリスト教が伝わるが、初期のキリスト教徒は迫害されていたので、キプロス最初の司教フィロネイデス(Philoneides)は、ディオクレティアヌス帝の時代(A.D.284-305)に殉教している。続く司教のゼノ(Zeno)は、 431年にキプロスで最初のキリスト教会をエピスコピに建てたことで知られる。以後キリスト教は広まっていく。

 

 



写真提供=AGTさん
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古代ギリシャ・ローマ建築の宝庫

  現在クリオンに残るギリシャ・ローマ時代の主だった遺跡は次のようなものである。初期キリスト教時代の建築物は劇場(Theatre)、Nymphacum、泉の家(Fountain House)、剣士の家(House of Gladiators)などが有名である。 これに、初期キリスト教会に多いバジリカ様式の建造物も少し含まれる。また例外として、エウストリオスの家(House of Eustolios)もこの時代に近いものだ。それ以外の建築物のほとんどは、ローマ時代のものである。また、クリオンから3.5kmほど西のパフォスへ続く道に沿って、城壁外バジリカ(Extra-Mural Basilica)様式の建造物、ローマ時代の競技場、アポロの神殿(Sanctuary of Apollo)など、アルカイック時代からローマ時代晩期までの建築遺構が点在する。
  クリオンは、島の他の沿岸部の都市と同様、4世紀後半に島を襲った大地震で壊滅的な打撃を受ける。都市の再建は5世紀なかばまでかかった。さらに7世紀中ごろからアラブ人が数回侵攻する。最初のアラブ人の侵攻は649年だった。戦乱によって街は焼きつくされる。このころからクリオンは都市の機能を失い始めた。やがてクリオンから東に2.5kmほど行ったところに新しい街が建設される。これがエピスコピである。この名前はギリシャ語で「クリオンの司教の館」という言葉からなまったもので、現在のエピスコピ村にその名前が残っている。


政情不安から懸念される遺跡の保護体制

  クリオンではこのころからキリスト教が衰退してくる。最初のアラブ人の侵攻直後、司教のディオニシウス(Dionysius)が死ぬのだが、その後、司教の職は1051年にミハエル(Michael)が就くまで途切れてしまう。そしてその後もキリスト教はさらに衰退していき、1222年についにキリスト教の司教は完全になくなってしまう。
  こういった中世の時代に、エピスコピの村は La Piscopie という名前で呼ばれていた。村はその後も激動をくり返し、13世紀になるとヤッファ(Jaffa)伯爵ジャン・ディブラン(Jean d'Ibelin)のものとなり、さらに14世紀から15世紀にかけては、コルナロ(Cornaro)家の領地の一部に組み込まれ、名前も領主の名をとって La Piscopie de Cornierとなった。なお、エピスコピの要塞化はこのころから始まり、1426年の強大なマムルーク朝の攻撃をはねのけている。この激しい戦いの痕跡としては、村の南郊の Serayia地区で発見された地下食料貯蔵庫が有名である。そこでは砂糖などの保存食が、そのままの状態で発見された。

  クリオン遺跡は現在も外国の研究機関を中心に精力的に発掘が行われているが、トルコとの緊迫した国際情勢から、貴重なローマ時代の建造物の修復が遅れている。そのため国際的な支援が必要とされている。また貴重な観光資源であるが、軍事的に緊張しているため観光客は少なく、対策が検討されている。





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