解説/文=収斂さん
カラクは海抜およそ1000mの広大な山すそに開けた古代の城塞都市で、キル・ヘレス(Qir
Heres)、ハラセテ(Haraseth)とも呼ばれる。カラクはエルサレムに通じる際の要衝に位置しているため、ここは激戦の舞台にもなった。
この城塞都市の歴史は1136年ごろ、エルサレム王国の君主バルドウィン1世(Baldwin
I)の宮臣だったパエン(Payen)が城を築いたことに始まる。
この城はエルサレムからショバック(現ヨルダン領)の中間に築かれ、アカバ(現ヨルダン、紅海の港町)からトルコにかけて長く伸びる十字軍の城のなかでも、現存するもののなかでは、その規模の大きさでとくに知られるものの一つである。
この城は、もともとエルサレム王国というキリスト教徒の王国が建設したものである。それがイスラム教徒の手に陥落した経緯には、次のような歴史があった。
12世紀中ごろ、君主バルドウィン3世が死ぬと、王位継承者がまだ13歳の子供だったため、摂政が政治を取り仕切ることになった。しかしその摂政もまもなく死去し、ステファニー(Stephanie)という女性以外に摂政の継承者がいなくなった。そこで、第2回十字軍のときにエルサレム王国に来て、ステファニーと婚約していたレノー・デ・シャティヨン(Reynaud
de Chatillon)という貴族が登場する。彼はイスラム教徒を弾圧し、全イスラム教徒から反感をもたれていた男だった。
数年後、英雄サラディンとの間に休戦協定が結ばれ、王位は16歳になったバルドウィン4世が継承し、キリスト教徒とイスラム教徒の間で交易も盛んになってきたが、復讐の機会をうかがっていたレノーは、メッカに向かうイスラム商人を襲ってしまう。サラディンも反撃し、エルサレムに向かうキリスト教徒のキャラバンを攻撃した。その結果再び戦争が始まり、衝突は数回におよぶ。ようやく休戦協定が結ばれても、その協定もレノーはまた破ってしまう。そこでサラディンは大兵力をもってカラクを総攻撃し、レノーを捕え、処刑する。(レノーはサラディンが処刑した唯一の人間といわれている)。こうしてカラクはついにイスラム教徒の手に落ちた。以後、カラクはイスラム教徒の都市として何世紀も栄えていくことになる。その後王朝はマムルーク朝、オスマントルコ、ヨルダンと交代していくが、街はその規模を拡大し続け、現在にいたっている。
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