解説/文=収斂さん
十字軍を撃退後、イスラム教徒が築いた町
トリポリは3000年以上の歴史を持つ古い街である。街の歴史は、紀元前1500年ごろにフェニキア人の主要都市として、シドン(Sydon)、ティール(Tyr)、アルワード(Arwad)などとともに、地中海に面した交通の要衝に都市が建設されたことに始まる。当時トリポリは、エジプトのテル=エル=アマルナでは
Derbly、 他の地域では
Ahlia とか、Wahlia
といわれていた。アッシリア帝国に併合されたときには
Mahallata という名で呼ばれていた。
トリポリ市街が大きく変貌するのは、1109年から180年間、十字軍の侵攻を受けたことによる。マムルーク朝のスルタンだったカラウォーン(Kalawoon)は1289年、十字軍に占領されていたトリポリの奪回に成功したが、再びここが十字軍の攻撃にさらされないように、3kmほど内陸に入ったところにある砦の近くに、新たな都市を建設するように命じた。その結果、海岸近くにあったトリポリ市街はイスラム教徒自らの手によって破壊された。
現在のトリポリ市街は、このマムルーク朝時代にできたものである。トリポリの周辺にはいまも十字軍から守るために建設された砦、城塞が多く残っているばかりか、十字軍が築いた要塞までも残っている。
修復が進む砂岩づくりの古建築
十字軍侵攻以前のトリポリは、ファーティマ朝の都市だった。残念ながらファーティマ朝の建造物は現存するものが少ない。十字軍の破壊をまぬがれたモスクは、ほとんどが要塞内部に建設されたものばかりである。特記すべきは、同じ地域の目印となるため、各地にいくつか設置されたマイルストーン(一里塚のようなもの)いわれる構造物ぐらいである。しかしそれはトリポリ新都市を建設するとき、資材として転用されたため現存するものは少なく、貴重な文化遺産である。
現在、トリポリにある重要建築物のほとんどはマムルーク朝時代のものである。トリポリには14世紀以前の建物が45棟あり、史跡指定されているものは200以上もある。トリポリのマムルーク朝時代の建築の特徴は、建築材料が、それまでは周辺で産出する砂岩のみであったのに対し、新たに花崗岩も使用したことである。花崗岩は強度、耐久性に優れているため、モスクや神学校、市場などいくつもの重要な建物に使われ、その多くが現存している。
しかしこういった建造物も、いまでは危機にひんしている。保存整備が間に合っていないのだ。とくに砂岩でできた建物は劣化、風化が深刻である。近年、マンスーリ大モスク(Mansouri
Great Mosque)、タイナル・モスク(Taynal
mosque)、宝石商の市場(Jewellers'
Bazaar)、テルの塔(Tell
Tower)、Madrassahal-Saqraqyiah、「下水道のキャラバンサライ」(Khan
al-Khayyateen)などが修復されたが、まだ多くの歴史的建造物が補修を必要としており、政府はユネスコに対して援助を申し込んでいる。
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