解説/文=収斂さん
アルメニア最高の建築家と彫刻家が手がけた作品
ノラヴァンク修道院(The
Monastery
of
Noravank)は、イランとの国境に程近いアルメニア南部ヴァヨツ・ゾル(Vayots-Dzor)地方にある。この修道院は
ヴァヨツ・ゾル渓谷を流れるアルパ川(Arpa
River)の支流によって削られた急峻な断崖の北側にへばりつくように建っており、アマグー(Amaghu)渓谷から東に3キロに位置している。
修道院の周囲には壁が築かれ、内側には3つの教会がある。中央にある聖カラペト教会(St.
Karapet)の前には、1261年に建てられた巨大なガヴィト(gavit:回廊、天蓋などと訳される)と、霊廟もかねている聖アストヴァツァツィン教会(St.
Astvatsatsin)がある。壁の外にも2つの小さな教会があり、これも霊廟をかねている。このノラヴァンク修道院は、アルメニア最高の建築家
Siranes
の作品であり、同じくアルメニア史上最高の建築彫刻家で、画家としても有名なモミク(Momik)の作品で飾られている。そのためアルメニアの至宝とされている。
イスラム教徒との争いの歴史
ノラヴァンク修道院の名前の由来は「新しい修道院」を意味し、ホヴァネス司教(Bishop
Hovhannes)によって1105年に開かれた。ホヴァネス司教はこの地方に初めて文字をもたらし、また各地の宗教説話を整理して、当時差別されていた女性や賎民への布教にも尽力し、彼らの埋葬を認め、埋葬法を確立したことで知られている。また、ホヴァネス司教が起したという奇跡も数多く語られていて、とくに崖から落ちそうになった母子を救った説話は有名である。
そのような人格者だったにもかかわらず、キリスト教を快く思わない近隣のイスラム教の封建領主
Hraskaberd(amiraという称号でよばれる)によって殺害されそうになったことがあった。最初に建てられた小さなノラヴァンク修道院は、Hraskaberdの軍によって完全に破壊され、現在は廃墟しか残っていない。ホヴァネス司教は急きょセルジューク朝の都イスファハン(Isfahan)に赴き、スルタンのムハンマド(Sultan
Mahmud)の病気の息子を治癒して、スルタンから信任と名声を獲得し、アマグー渓谷一帯のキリスト教会を許可してもらった。そして武装した仲間を集めて
Hraskaberd
に抵抗し、ようやくイスラム勢力を打ち負かすことに成功した。なお
Hraskaberd
という封建領主国家がどこにあったのかについては、いまでも正確にはわかっていない。
それからおよそ100年後、ペルシャ人がHraskaberdを再興し、再びアマグー渓谷一帯のキリスト教勢力に圧力をかけてきた。このときは
Liparit
Orbelianが指揮し、
Zakarian兄弟という2人の軍人(現在の大尉に相当する身分)が味方してくれたことも手伝って、なんとかペルシャ人勢力を駆逐することに成功した。そしてLiparit
Orbelianは、破壊された聖カラペト教会の残骸を取り囲むように、新しい修道院を再建した。
中世アルメニア建築の密集地帯
13〜14世紀にかけて、この一帯はオルベリアン一族(Orbelian
family)が支配した。オルベリアン一族は、一族の繁栄を祈念し、自分自身の墓もかねた多くの教会を、ノラヴァンク修道院付近に次々と建設していった。その結果ノラヴァンク修道院は、この地方のキリスト教の中心地として発展した。
オルベリアン一族の教会の中で最大のものは、「神の母」という意味を持つアストヴァツァツィン教会である。
これはブルテル・オルベリアン(Burtel
Orbelian)が建てた2階建ての教会で、彼の名にちなんで
Burtelashen教会とも呼ばれる。完成は1339年で、天才彫刻家モミクの最高傑作の彫刻がある。
この教会はその後何度か大規模な改修がなされ、屋根が寄棟屋根に変更されたりもしたが、1997年に建設当初の屋根である、円すい形でひさし状の張り出しをもつ屋根に復元された。(なおこのとき、古い石材を可能な限り再利用した)。ブルテルとその家族の墓は教会の1階にあり、西のファサードから延びる狭い階段が、教会の入り口につながるという構造をもつ。また入り口のドアにあるペテロ、パウロ、キリストが並んだ精緻な彫刻は、アマグー渓谷の教会にある彫刻のなかでも屈指の秀作とされている。
キリストの聖血がついた十字架
ノラヴァンク修道院の境内にあるカラペト教会もまた、何度も破壊と修復を繰り返してきた。リパリト・オルベリアン(Liparit
Orbelian)による2代目のカラペト教会は上から見ると十字形をしており、1216から11年もかけて建設された。ドームや鐘楼を備えていたが、その後の地震で建物は壊れ、初代のカラペト教会の廃墟の北に、その遺構が残るだけとなった。
しかし、控えの間として利用された場所には1261年の銘が現存しており、すばらしい装飾もだいぶ残っている。まぐさ(lintel:入り口や窓など上にある横木)にも、壮麗な彫刻がいくつも現存している。さらに西門には、歴史家でもあったステパノス司教(Stepanos)が記した1303年の銘が残る。なおホヴァネス司教の足跡の多くは、このステファノ司教が記述したもので、現在では貴重な考古資料になっている。またステファノ司教自身に関する記録も多く現存しており、とくに、夏の暑い時期に修道僧らとともに山間にあるアラテス(Arates)修道院に移って修行をしていたという記述は興味深い。
そのそばにある聖グリゴルの礼拝堂(the
chapel
of
St.
Grigor)は1275年に建てられ、オルベリアン一族の墓よりも多くの墓が密集している特徴がある。ステファノス司教の兄弟などの墓所もここにある。また、1300年の銘とともに、ライオンと人を刻んだ華麗な彫刻墓石があることでも有名である。
ノラヴァンク修道院が収蔵している秘宝のなかでも、キリストの聖血のついた十字架(the
True
Cross)はとくに有名だ。この遺物の由来として不思議な話が伝わっている。この十字架はもともと、ある村の死んだ子供を生き返らせたという不思議な能力をもつ異邦人のもちものだったが、由緒ある地方豪族であるアルツァフ一族(Artsakh)その異邦人から十字架を強制的に奪い取ったところ、一族に多くの不幸や災難が襲い、やがて亡命せねばならなくなった。そこでアルツァフ一族はオルベリアン家に、この十字架の購入話をもちかけた。オルベリアン家は十字架を即金で購入し、やがて現在のノラヴァンクに収蔵されることになったという。
参考ウェブサイト
http://www.lib.rpi.edu/dept/library/html/ArmArch/Ama.html
http://www.cilicia.com/rediscover.pl?action=browse&diff=1&id=Vayots_Dzor_MarzAmaghu-Noravank
(Amalu-Noravank')
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