解説/文=収斂さん
真珠取引の中心地として栄えた18世紀の都
考古学的発掘調査によると、カタール半島一帯では石器時代以前から人が暮らしていたことは判明しているが、その当時の気候は現在よりもはるかに温暖湿潤で、人が定住しやすい環境だったこともわかっている。その後の気候変動で、カタール半島全域が極度に乾燥化・砂漠化してからは、
遺跡はおろか、人が定住したことを示す痕跡すらほとんど発見されなくなる。つまりポルトガルによる植民地化以前のカタールの歴史については、ほとんど手がかりすらない空白時代なのである。またポルトガルがペルシア湾岸に多く建設した要塞群も、カタール国内にはまったく存在しない。この事実は、カタール周辺の自然環境がいかに人が住むのに苛酷であるかを物語っている。
記録が残っているカタールの歴史は、18世紀に一帯を支配したサーニ家(the
Al-Thani family)によって始まるといってよい。当時のこの地域の産物といえば真珠採取くらいだったが、その取引を支配したサーニ家は、およそ100年後にはカタールの統治者になっていく。ズバラ(Zubara)は真珠取引の中心地として繁栄していた都市で、当時はサーニ家ではなく、ハリーファ家(the
Al-Khalifa family)が支配していた。このハリーファ家はその後、隣国バーレーンの統治者として現在にいたる。
ズバラ遺跡は18世紀に建設された城塞遺構で、現在はアル・ズバラ地方博物館(Al-Zubara
Regional Museum)という博物館として利用されている。カタールに存在する数少ない大規模歴史遺産であり、貴重な遺構とされている。
サーニ家が築いたカタール国の近代史
ところで現在のカタールの首都ドーハ(Doha)は、19世紀から20世紀初頭まで、まったくさびれた寒村だったが、トルコやサウジアラビアなど近隣諸国からの支配をまぬがれ、カタール周辺の諸部族のなかでサーニ家が優位性を保つ目的で、19世紀中ごろに首都と制定された戦略都市である。
サーニ家は1867年に英国と独自に条約を結び、また1872年にはトルコとも条約を結んで、カタールの支配体制を確立していった。第一次世界大戦でトルコがドイツ側について参戦した際、サーニ家は英国からの要請にしたがって、国内にいたトルコ外交官ら政治勢力を一掃し(1915年)、トルコの影響力の完全排除に成功したが、翌16年にイギリスと安全保障協定を締結して、「英国の許可なしにサーニ家以外の勢力がカタールの国家元首になることを認めない」という協定の調印にも成功している。このことが隣国バーレーンのハリーファ家との領土問題をさらに複雑化してしまった。サーニ家とハリーファ家はいまでも互いに仲が悪く、ハワール諸島(the
Hawar Islands:2004年、バーレーンが世界遺産に推薦)の領有権争いに見られたような武力衝突は記憶に新しい。
カタール観光の起爆剤としての期待
ズバラの繁栄は1929年にアメリカで起こった大恐慌の影響で大きな転機を迎える。翌30年に起きた真珠相場の大暴落によって、サーニ家は真珠以外の安定的な財政基盤の確立を目指す方針を打ち出した。そこで注目されたのが油田開発である。当時ペルシア湾岸ではいくつも油田が発見されていた。サーニ家は1935年に油田開発業者を外国から招へいし、39年にカタールで初めて油田が発見された。しかし第二次世界大戦の影響で開発は10年ほど遅れ、産油が始まったのは戦後になってからである。
このオイルマネーがカタールの近代化に大きく貢献した。結果として、ズバラの重要性は薄れてしまったが、カタールの石油埋蔵量はそれほど多くなく、近年枯渇が心配されている。観光地としてのズバラの再評価が高まっているのもそのためである。
参考ウェブサイト
http://www.lonelyplanet.com/worldguide/destinations/middle-east/qatar?v=print
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