ズバラ遺跡 Zubara Site
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解説/文=収斂さん 真珠取引の中心地として栄えた18世紀の都 考古学的発掘調査によると、カタール半島一帯では石器時代以前から人が暮らしていたことは判明しているが、その当時の気候は現在よりもはるかに温暖湿潤で、人が定住しやすい環境だったこともわかっている。その後の気候変動で、カタール半島全域が極度に乾燥化・砂漠化してからは、
遺跡はおろか、人が定住したことを示す痕跡すらほとんど発見されなくなる。つまりポルトガルによる植民地化以前のカタールの歴史については、ほとんど手がかりすらない空白時代なのである。またポルトガルがペルシア湾岸に多く建設した要塞群も、カタール国内にはまったく存在しない。この事実は、カタール周辺の自然環境がいかに人が住むのに苛酷であるかを物語っている。
ところで現在のカタールの首都ドーハ(Doha)は、19世紀から20世紀初頭まで、まったくさびれた寒村だったが、トルコやサウジアラビアなど近隣諸国からの支配をまぬがれ、カタール周辺の諸部族のなかでサーニ家が優位性を保つ目的で、19世紀中ごろに首都と制定された戦略都市である。
ズバラの繁栄は1929年にアメリカで起こった大恐慌の影響で大きな転機を迎える。翌30年に起きた真珠相場の大暴落によって、サーニ家は真珠以外の安定的な財政基盤の確立を目指す方針を打ち出した。そこで注目されたのが油田開発である。当時ペルシア湾岸ではいくつも油田が発見されていた。サーニ家は1935年に油田開発業者を外国から招へいし、39年にカタールで初めて油田が発見された。しかし第二次世界大戦の影響で開発は10年ほど遅れ、産油が始まったのは戦後になってからである。 |