解説/文=漣さん
夏の乾燥を乗り切るため、集水路を整備
リマソール地方(Limassol)からトロードス山脈南部の64平方キロメートルの地域には、石灰岩でできた丘に広がる葡萄園に囲まれた
Lofou,
Vouni,
Pachna,
Agios
Ambrosios,
Agios
Therapon
といった14の村々が点在する。
ほとんどのブドウ園は丘の等高線に沿ってではなく、土地の形状に合わせたものになっているため、はた目から見ると垂直というよりは、緩やかなカーブを描いたような形になっている。また、ブドウ園は地面や周囲の薄い層から切り出した石灰石を、高さ1〜3m、幅0.8〜2.5mを大体の基準にして、周囲を囲んでいる。
これらの村のブドウ園は、ブドウ栽培に適さない周辺地域との景観の調和がとれていることにより、価値を高めることに成功している。畑を囲む石壁は、強い海風を避ける防壁の役割を果たすが、雨が降ったときに貯水槽に水を送るための排水路が掘られており、とくに乾燥したこの地域においての知恵が見られる。またこの排水路は、地中海地域のほかの場所では見られないものである。
起源や真正性の面で疑問が残るブドウ園
キプロス島におけるワイン醸造の歴史に関しては不明な点が多い。一説には4000年の間に渡ってワインをつくってきたであろうといわれ、発見された紀元前9世紀のものと推定される
Alamis
のワイングラスには、ワインを飲む女性のほかに、ヴィンテージイヤーも記してあったという。フランスのブドウも、キプロスから輸入したものという説もあるが、真偽のほどは謎である。
12世紀には
Lusignans
によって輸出され、14世紀にはキプロスワインはロンドンで高く評価されたということで、Peter
I
がキプロスワインを用いた宴を催した絵画が王立商品取引所に収蔵されている。また、16世紀に入りオスマン=トルコの支配下に入ると(注1)、ワイン醸造業は下火になり、再興は19世紀、大英帝国の統治下になってから(注2)だった。
現存するブドウ園と排水路を備えた防壁は、19〜20世紀のものがほとんどだと思われるが、ワイン醸造の伝統が続いていたのか。第二次大戦中にマキ団(注3)が潜伏していた同地域で、果たして損壊を免れたのか。古いものと新しいものとが一緒になってしまっているのではないか——などの問題が多く残っている。
最盛期には毎年2000人の勢いで増加していった住民も、第二次大戦後には金銭的理由から都市部への移住者があとを絶たず、多くのブドウ園が放置されたままだったが、近年道路が整備され、いくつかの醸造所も修復された。少しずつ経済が回復してきており、現在では各村にそれぞれ100人ほどの住民がいる。しかし、いまだ多くのブドウ園や住居は荒れたままになっている。
(注1)
オスマン=トルコのキプロス征服に関しては、サクリ・モンティの項のレパントの海戦の欄を参照のこと。
(注2)
地中海進出をめざすロシア帝国皇帝アレクサンドル2世は、クリミア戦争に続き、バルカン半島のスラヴ民族を啓発したことにより、露土戦争(1877-78)に発展、勝利を収めるが、スラヴ民族を抱えるオーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国の地中海進出に難をとなえたスエズ運河の大株主である大英帝国の反対にあい、ドイツ帝国のビスマルクの仲介のもとでベルリン会議が開かれた。
この際、ロシアは大ブルガリアの領土が削られ、ルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立が認められ、オーストリア=ハンガリー帝国はボスニア・ヘルツェゴビナの占領権、フランスはチュニジアを得た。
キプロスはこのときに大英帝国の支配下に置かれることとなり、独立を果たすのは第二次大戦後の1960年のこととなる。
(注3)
第二次大戦中、反ナチ活動を行なったフランスの地下組織。
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