ケンブリッジ大学とその周辺
Cambridge Colleges and the Backs


国名 連合王国
分類

文化遺産

所在地 イングランド。首都ロンドンの北およそ80km


審議歴
1985年 暫定リストに記載。
1989年 登録延期 … 英国政府が推薦範囲をより限定するまで、遺産登録の審議を見送る。
1998年 暫定リストより削除。


解説/文=収斂さん
  ケンブリッジ(Cambridge)は、ロンドン市内のリバプール・ストリート駅から鉄道で1時間行き、さらに駅から1.5km行ったところにある。ケンブリッジは大学の街である。しかしケンブリッジ大学という単体の大学が存在するのではない。ケンブリッジには複数の有名な古い大学が密集し、この大学から輩出した多くの秀才が、その後の英国の歴史に多くの足跡を残し、貢献したばかりでなく、世界史にも多大な影響を与えた。
  ケンブリッジには、トリニティ通りとそれに続くキングズ通りに沿って、セント・ジョーンズ・カレッジ(St. John's College)、トリニティ・カレッジ(Trinity College)、キングズ・カレッジ(King's College)、クィーンズ・カレッジ(Queen's College)、ダウニング・カレッジ(Downing College)が、シドニー通りとそれに続くセント・アンドリュー通りに沿って、シドニー・サセックス・カレッジ(Sydney Sussex College)、クライスト・カレッジ(Christ College)、エマヌエル・カレッジ(Emanuel College)が並んで建っている。
  また大学群の西にケム川という小川があり、それに「マグダレン橋」、「ため息の橋」、「トリニティ橋」、「クレア橋」、「キングズ橋」、「数学の橋」など有名な橋が架かっている。
  なお現在ケンブリッジには32のカレッジがある。


 


 ▲キングス・カレッジ礼拝堂 
写真提供=Yumi さん(BAGDAD CAFE




 ▲ため息の橋(セント・ジョージズ・カレッジ) 
写真提供=Laika さん(TRAVEL BOX
   

<トリニティ・カレッジ>

  トリニティ・カレッジは1332年に完成した大学だが、1564年にヘンリー8世によって大きく改築され、現在のような大学となった。(そのため正門にはヘンリー8世の石彫がある)。16世紀当時、トリニティ・カレッジはケンブリッジで最大のカレッジであり、当時のケンブリッジの学生総数1200人のうち、およそ25%がトリニティ・カレッジに通っていたという。大学は、芝生の中庭を中心に、各教授の研究室が口の字に取り囲む構造をしており、中央にルネサンス式の噴水が置かれとても美しい。
  トリニティ・カレッジ史上重要な出来事は、トリニティ・カレッジの神学者トーマス・カーライトによる英国教会とカトリック的教義の批判が発端となって、やがてケンブリッジ全体が、ピュ−リタニズム運動の中心になったことである。これはピューリタン革命ともいわれ、その後の英国宗教改革の口火を切ったこと大事件だった。構内に現在も残るセント・メアリーズ教会は、ピューリタン革命の発祥地といわれている。なおカーライトはほどなくケンブリッジの教壇から追放された。しかしその精神はやがて、英国に初めて共和制を敷いたオリバー・クロムウェルに引き継がれていく。
  トリニティ・カレッジからはもう一人偉大な天才が輩出している。アイザック・ニュートン(Newton Sir Isaac,1643.1.4-1727.3.31)である。彼もトリニティ・カレッジで学び、1665年に学士号を取得、65年6月から18カ月間ペストの流行で大学が閉鎖された間に、力学、光学、解析学を多くの成果をあげ、67年にトリニティ・カレッジの特別研究員となり、68年に修士号を取得。69〜1701年、教授に就任した。有名な「自然哲学の数学的諸原理」(Philosophiae naturalis principia mathematica, 略称プリンキピア)は1687年に刊行している。


<シドニー・サセックス・カレッジ>

  シドニー・サセックス・カレッジからは、英国の歴史上もっとも重要な人物の一人に数えられる、オリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell, 1599-1658)が輩出した。クロムウェルの首は、現在このシドニー・サセックス・カレッジに埋葬されている。
  ピューリタン革命の直接の原因は、1640年4月のチャールズ1世と議会とのスコットランド戦役についての対立だった。このとき議会は、国王を弾劾し、国王は議会を解散する強行措置をとったために、1642年、両者はついに武力衝突し、国王が議会に宣戦布告するという異常事態が起こった。クロムウェルは軍を指揮して王党派の軍を撃退し、国王チャールズ1世を処刑し、革命を成功させ、1649年に共和制を敷いた。しかし腐敗した議会に失望し、護民官(Lord Protector)に就任して軍事独裁政権をつくり、フランスやオランダの対外政策に奔走した。
  彼は死後ウエストミンスター寺院に丁重に埋葬されるが、1660年の英国王政復古で国王処刑の首謀者とみなされ、死後、死体を掘り返された。そしてチャールズ1世の命日の絞首台につるされ、さらにその首は25年間もウエストミンスター寺院の屋根にさらされたという。この頭骨は、ようやく20世紀初頭になってシドニー・サセックス・カレッジに埋葬された。現在ではクロムウェルの行動に正当な評価がなされ、汚名も返上されている。


<クライスト・カレッジ>

  ヤギの紋章をしたクライスト・カレッジからは、「失楽園(Paradise Lost, 1667)」の著者である詩人ジョン・ミルトン(John Milton, 1608-74)、「種の起源(On the Origin of Species by mean of Natural Selection, 1859)」を発表したチャールズ・ダーウィン(Charles Robert Darwin, 1809-92)などが輩出した。なおミルトンはクロムウェルの親友であり、共和制議会では彼を助けて書記官となったりもした。


<エマヌエル・カレッジ>

  エマヌエル・カレッジのある場所には、以前はカトリックの修道院があったが、ヘンリー8世の宗教改革で破壊され、1584年にエマヌエル・カレッジが建築された。トリニティ・カレッジの神学者トーマス・カーライトが追放されたころ、エマヌエル・カレッジ学長ローレンス・チャダートンはピューリタンであり、カーライトとも親交があった。そのためカーライトを招いて講義させることもあった。そうしてエマヌエル・カレッジは、リニティ・カレッジに引き続き、ケンブリッジのなかでピュ−リタニズム運動の中心的役割を果たした。
  17世紀初頭の英国では、ピュ−リタニズム運動は弾圧される。そのため、新天地を求めて多くのピューリタンが国外脱出した。その行き先でもっとも多くのピューリタンが移住した場所が、北米のニューイングランドである。エマヌエル・カレッジ卒業生は、その移住に指導的役割を果たし、卒業生の多くが北米に移住。その後のアメリカ大陸の政治・文化に多大な影響を与えることになる。主な人物としてジョン・コットン、トーマス・フーカー、それにハーバード大学創設者ジョン・ハーバードなどが有名である。
  ちなみに1642年のハーバード大学第1期卒業生9人中7人が、ピューリタン革命勃発を機に英国に帰国し、クロムウェルを助けたという逸話も残る。


<キングズ・カレッジ>

  ヘンリー6世によって1441年に創設された、ケンブリッジ最大にして最も有名な大学である。建物は1446年から1515年にかけて建設された。構造は単廊式の垂直式ゴシックがとられ、精巧で華麗な扇形のボールトの天井をもつ。平面形の堂でありながら、壁、天井を通じて、均質で統一されたデザイン要素のくり返しが一貫されており、ケンブリッジで最も重要で美しい建築といわれる。とくに礼拝堂は豪華壮麗で、祭壇の「三賢人の礼拝図」はルーベンスの作品である。


<クィーンズ・カレッジ>

  ヘンリー6世王妃マーガレットによって、1448年に創設された。キングズ・カレッジ同様美しい大学である。


<セント・ジョーンズ・カレッジ>

  セント・ジョーンズ・カレッジは1511年創設で、ケンブリッジで最も北にあるカレッジである。建物は中庭を囲んだ対称形であり、1825〜31年に大幅な改築がなされた。基本様式はゴシック建築ながら、ピクチャレス効果をねらって、かなり自由な設計となっている。セント・ジョーンズ・カレッジ二番目と四番目の中庭の間を流れる、カム川を結ぶ屋根付きの石造橋は「ため息の橋」といわれ、名所の一つに数えられている。
  セント・ジョーンズ・カレッジからは、湖畔詩人ワーズワース(William Wordsworth, 1770-1850)が卒業した。彼の主な作品としては、コールリッジとの共同出版である「叙情民謡集」ほか、「序曲」など多数あり、ロマン派とは一線を画した独自の世界を展開している。


<イーリ大聖堂>

  イーリ大聖堂(Ely Cathedral)はアングロ・ノイマン様式の秀作で、三層構成の壁に木造天井を架け、上から見ると十字形をしている。半円柱のくり返しの垂直要素と壁面の水平要素が、室内に緊張感を演出している。聖堂は1083〜1180年に建造されたが、その後増築が多く行われた。西正面は13世紀、交差部の八角の塔は14世紀に加えられた。


    ◇      ◇


  ケンブリッジからは多くの天才・秀才が輩出した。上記のほかにも英国の代表的なロマン派の詩人で、物語詩「チャイルド=ハロルド巡礼」、叙事詩「ドン=ジュアン」、劇詩「マンフレッド」の著者ジョージ・バイロン(George Gordon Byron, 1788-1824)などもいる。

  ケンブリッジはイギリス建築を代表する傑作が多く存在する、たぐいまれな場所であるばかりでなく、綺羅星のごとくあふれる天才・秀才が多く育った文化史上希有な場所であるとして、世界遺産登録はほぼ間違いないと思われる。





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