サラエボ — 世界の多様な文化のユニークな象徴
Sarajevo - Unique symbol of universal multi culture-continual open city

国名 ボスニア・ヘルツェゴビナ
分類 文化遺産
所在地 首都サラエボ


審議歴
1985年 暫定リストに記載。
1986年 登録延期 … 遺産に関する比較検討や研究が完了していない。
1999年 不登録 (詳細不明)


解説/文=漣さん
  サラエボの町は標高500メートルを超える盆地の上、ミリャツカ川沿いにある。紀元前10世紀にはトラキア人が住んでいたとされるボスニアの地に、7世紀以降、南スラヴ系のクロアチア人やセルビア人の移住が始まった。サラエボの名は15世紀初頭、ブルフボスナの名で初めて登場する。
  313年、コンスタンティヌス帝による「ミラノ勅令」が発布され、キリスト教が公認されると、バルカンを含むローマ帝国が、ローマ帝国、ギリシャ文化、キリスト教が融合した独自の文化を形成した。そして12世紀後半クリンという人物がボスニア中部を統一、中世ボスニア王国を建設する。14世紀にはコトロマニッチがフム地方(現在のヘルツェゴビナ)を支配し、ボスニア・ヘルツェゴビナの基礎を築いた。後継者トヴルトコはさらに領地を拡大し、一時はバルカン最強の国家になるも、死後内紛が起き、以後衰退した。
  1453年オスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼし、バルカン半島まで勢力を伸ばすと彼らのイスラム教への改宗を始めた。ムスリムが支配階層になると読んだカトリック、東方正教の信徒は改宗を受容、当時迫害対象であったボゴミル教信者も改宗を受け入れた。ボゴミル教は当時ボスニアに住むセルビア人に信仰されていた、善悪二神論を説く異端宗教(善悪二神論の考えは善神アフラマズダ、悪神アンリマンユの二神が存在するゾロアスター教に似ている)だった。現在信仰する人はいないが、彼らの独特の紋様が刻まれた石墓が、ボスニアの各地に残っている。
  16世紀になるとボスニア県知事ヒュスレヴ・ベイが、モスクやバザールの建設を命じ、基本的都市計画を実行する。とくに1530年建造のフスレフ・ベグモスクは、市内最大である。
  職人街であるバシチャルチャ地区にはモスクやミナレットが建ち並び、金属、革製品などを売る土産物屋が活気に満ちている。
  オスマン帝国の支配はその後400年近く続いたが、1878年ベルリン条約が締結されたことで、ボスニアの覇権はハプスブルク帝国に移り、1908年オーストリア=ハンガリー帝国が併合を宣言、その支配は1918年まで続くことになる。このころハプスブルク帝国の台頭によってカトリック世界の編入が始まり、オーストリア風バロック様式の教会が建てられた。
  二度の世界大戦やボスニア内戦を経た現在でも、ジャミア、モスク、シナゴーグ、ミナレット、カトリック教会、東方正教会などの建造物が密集するサラエボは、民族、 宗教に寛容であり多様の文化の交流があったことの象徴を残している。
  なおサラエボの名は、トルコ語の「サライ・オワス Saray Ovasi」(宮殿のある平野)に由来する。

サラエボに多くの文化が残っている理由

1.地理的条件
  ボスニアの地は山に囲まれ訪れにくいため、一度浸透した文化は消えにくく、いくつもの文化が堆積することになった。オスマン時代以降、ベオグラードからドゥブロブニクへ抜ける交通及び軍事の要衝として、サラエボは飛躍的な発展をとげた。(ルネッサンスや宗教改革でさえも、ボスニアにはあまり影響しなかった)。


2.宗教寛容策をとったオスマン帝国の支配

  オスマン帝国はバルカンの伝統に配慮し、基本的に強制改宗をしなかった。15世紀にはスペインを追放されたスペイン系ユダヤ人スファラディム、ドイツ、ハンガリーで迫害が強くなったドイツ系ユダヤ人アシュケナジムが次々と移住し、16世紀以降、サラエボをはじめとするいくつかの都市に、巨大なユダヤ人コミュニティーを形成した。
  またミッレト制を施行し東方正教、ユダヤ教、アルメニア教を、キリスト教として一つの宗教共同体(ミッレト)とし、その地域の徴税を委託し、宗教的均衡を保つようにした。
 しかし、統治初期にはデウシルメ制という優秀なムスリムを生育するための強制改宗もあり、多くのキリスト教徒男子はイスラム教育を受け官僚となった。大宰相になる者も少なくなく、16世紀にはセルビア人宰相ソコロヴィチはセルビア教の自立を認めた。1638年にデウシルメ制が廃止されると、従来のミッレト制が効果を発揮するようになった。


3.民族的意識の希薄性、および確立

  10〜12世紀にかけて、ブルガリア、セルビア、クロアチア、ハンガリー、ビザンツ帝国と、交互に支配を受けたボスニアでは、東方正教化が進んだ。12世紀ボスニアが統一されると、漠然ながら定住していたセルビア人、クロアチア人には、ボスニア人としての民族意識が漠然とながら目覚め始める。オスマン帝国の支配が及んだときもムスリムに改宗したが、カトリック、東方正教にも多く改宗した。
  19世紀後半、ボスニア全土に広がった農民蜂起が原因で露土戦争に発展し、オスマン帝国が退廃を期すことになるが、これ以降、周辺国のセルビア人、クロアチア人が、セルビア人は東方正教、クロアチア人はカトリックをよりどころとする民族主義の啓発を始める。この事態を重要と判断したのが、当時ボスニアを統括していたハプスブルク帝国大蔵大臣カーライで、クロアチア人ともセルビア人ともちがうボスニア人としての意識を啓発する「ボスニア主義」政策をおし進めた。民族主義の浸透の防止、民族意識に変わる新たな考えである「ボスニア人」を形成するための「ボスニア主義」政策は功を奏し、ボスニア人意識を発生させることに成功した。
 しかし、「ボスニア人」は独立を目指し、1992年内戦を起こすことになる。






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