リネーラ砦 FORT
RINELLA
兵器の進歩に対応しうる新タイプの要塞
19世紀も後半のビクトリア朝になると、多くの要塞がマルタ島の戦略上の拠点に建設されていくが、貴族が巨額の資金を投入してつくった要塞も、兵器の進歩の前には無力になりつつあった。とくに海上からの艦砲射撃に耐えるだけの強力な装備を備えた要塞建設がどうしても必要になった。リネーラ(Rinella)砦は、この新タイプの要塞としてマルタに建設されたもののなかでは最も規模が大きく、1876〜84年に建設された。
要塞は五角形をしており、北壁と東壁が海岸線に接し、グランド港(Grand
Harbour)の入り口に建つ。1876年に4門の大砲を発注したが、届いたのは2門だけで、そのうち1門をリネーラ要塞に、もう1門を湾の対岸にあるティニエ(Tigne)要塞に装備した。この大砲は特別に側溝で区切られた砲座に設置され、砲身10メートル、重さ100トン、口径45センチ(17.72インチ)、初速470メートルで、射程距離6キロメートルという、当時としては最強の大砲の一つであり、2門のうちの一つはまだジブラルタル(Gibraltar)に残っている。
リネーラ要塞にはほかにも多くの砲が装備されていて、さらに無数の銃眼が塁壁の頂部に設けられていた。また要塞には大きな前庭があり、守備隊用の待機区画を備えていた。
現在、リネーラ要塞の建物のうち、ビクトリア女王治世下に建設されたものの一つが、Wirt
Artna:
Moviment
tal-Harsien
ta'
I-Ambjent
storiku
財団によって維持管理され、一般に公開されている。
聖アンジェロ砦 FORT
ST.
ANGELO
歴代の聖ヨハネ騎士団長を埋葬した教会
この要塞の歴史は古い。現在要塞の建っているところは、もともとフェニキア人が寺院を建設していた場所である。その後、ローマ帝国支配の時代に、寺院は女神ジュノの神殿に改造されている。聖アンジェロ(St.
Angel)要塞は、島がアラゴン人に支配されていた11世紀当時、Castelo
a
Mare(海の近くの要塞の意)として知られていた。
要塞としての機能を初めて備えたのは、11世紀にアラブ勢力の攻撃にさらされるようになってからである。14世紀になると、ここはアラゴン人の封建領主Nava家の居城になり、要塞も拡充された。といっても1400年までの要塞には、小さな大砲が3門と臼砲がいくつかあるだけだったが、それも1570年の後半には、騎士達が塔を増築するなど、次第に強固なものに変わっていった。また1565年の包囲攻撃の間も、この要塞は名誉あるヴァレッタの聖ヨハネ騎士団の司令部だったため、反抗的だったり、謀反を起こそうとした騎士達の牢獄としても使われた。
要塞内には二つの教会がある。一つは12世紀建造の聖母教会、もう一つは1534年建造の聖アン教会である。ヴァレッタ要塞が完成する前に亡くなった騎士団団長は、いったん聖アン教会に埋葬され、その後、亡骸は聖ヨハネ大聖堂(St.
John's
Cathedral)に移された。包囲攻撃の戦没者の多くも要塞内部に埋葬されている。
聖アンジェロ要塞を海軍司令部に変えたのは、英国だった。英国は要塞の名称を
H.M.S.
St.
Angelo
と改名し、第二次世界大戦中は、ここに地中海艦隊の海軍司令部が置かれた。
現在、要塞を含む港湾一帯は、エルサレム、ロードス、マルタを含む聖ヨハネ勲章が与えられ、要塞は広範囲にわたって復旧作業が行われている。そして今後港湾を、世界に開かれた国際交流の拠点として利用しようという計画もさかんに議論されている。
リカゾーリ砦 FORT
RICASOLI
19世紀に英国が補強。第二次大戦でも活躍
この巨大なリカゾーリ要塞は、グランド港(Grand
Harbour)の南の入り口の絶壁にあり、聖エルモ(St.
Elmo)要塞の反対側に建つ。設計は著名な軍事研究者の
Maurizio
Valperga
の手による。また要塞の名前はイタリア人の騎士の
Giovanni
Francesco
Ricasoli
に由来する。
1698年、騎士団長ペレロス(Perellos)の時代に、リカゾーリ要塞は強固に改造された。七つの頑強な稜堡とラヴェラン、それに続く半稜堡と幕壁をもったこの要塞は、難攻不落と思われた。しかし18世紀になると、脱走ガレー船奴隷を処刑する、見せしめ用の絞首刑台も作られている。
19世紀になると英国が要塞を手に入れ、1870年までに重砲用の砲塔、旋回砲塔、旋回銃座、それに兵舎をいくつも建造した。その結果、駐留部隊は700人以上、海上に向けられた大砲は100門以上というすさまじいものになった。そして1872年以降も、多くの大砲がより強力な砲に交換され、また大砲の周囲も鋼鉄製の防御装甲板で覆ったものに強化されていった。
要塞は第二次世界大戦でも重要な役割を果たした。そのため、しばしばドイツ軍の急降下爆撃機の攻撃にさらされ、砲兵室、美しいバロック様式の門などが完全に破壊された。
第二次大戦後、リカゾーリ要塞は数年間だけ海軍の兵舎に使われ、この要塞の門だけがかろうじて再建された。しかし現在では大砲は取り払われ、駐屯部隊もいない。今後、この要塞を海の見える公園として活用しようという計画がもちあがっている。
要塞の近くにある有名な歴史的遺産として、聖ニコラス教会がある。これは騎士団長ニコラ・コットナー(Nicola
Cottoner)の時代のもので、戦災を免れたものだ。なかでも祭壇の背後の絵画(altarpiece)は
Matia
Preti
の秀作である。
デ・レディンの塔群 THE
DE
REDIN
TOWERS
沿岸警備のため2年で急造された13の塔
中世以来、マルタ島はたびたび海賊被害に苦しめられてきた。海賊のねらいは、若者を捕らえ奴隷商人に売り飛ばすことだったが、騎士団がマルタに来るまでは、海岸沿いの防備は皆無に等しく、かねてから海賊の襲来を一刻も早く知らせるための手段が望まれていた。こういった海賊は、そのほとんどがイスラム教徒だったため、事態を重くみた騎士団は対策に本格的に乗り出した。
さらに時代が下るにつれ、戦略的に重要な場所にも見張塔が建てられていくが、中には、単なる見張塔というよりも、小さな城といったほうがいいような、規模が大きく武装も強化されたものも造られていく。南部の聖ルシアン(St.
Lucian)の塔や、聖トーマス(St.
Thomas)の塔のようなものがそうである。
1657年に、アラゴン人の騎士マルティン・デ・レディン(Martin
de
Redin,
1579-1660)が騎士団長に選出されると、彼は海岸地域の防衛のために新たに13の見張塔を建設するように命じた。この建設はわずか2年の早さで完成し、数あるマルタの見張塔の中でも、これらはとくに「デ・レディンの塔群」として知られる有名なものである。
デ・レディンの塔群の特徴は、頑丈な石づくりの2階建てで、断面が長方形をしていることである。そして各見張塔が、隣の見張塔から見える範囲内に建設されており、仮に一つの塔が攻撃されても、隣の見張塔が異常に気づき、昼間ならつなぎのろし、夜間なら松明を使って、いち早く襲来を知らせるように工夫されていた。13の見張塔は、最東端の
Marfa
から南東の
Delimara
までのびている。(それより南は断崖になっているので見張塔を建設する必要がなく、塔は存在しない)。なお塔の見張は
Dejma
という、安い賃金でやとわれた地元の警ら隊が行なった。
18世紀になると、オスマントルコの弱体化により、イスラム教徒の脅威も少なくなってきた。その結果、見張塔ももはや必要でなくなり、しだいに放棄されていく。近年までそのほとんどが廃虚となっていたが、最近ではようやくその歴史的価値が見直され、修復も進んでいる。
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