解説/文=収斂さん
一度もイスラム化されなかった東欧の小都市
ワラジディンの街は、北西クロアチアで最も宮殿や城塞、旧市街の保存状態がよい街である。1000年以上の歴史をもち、記録によれば、最初のクロアチアの王とされるBelecの時代のまでさかのぼる。ワラジディンの城塞は、1181年にクロアチア王のベラ3世(King
Bela
III)によって編纂された宣言文によると、12世紀に最初の砦が建設されたことが記されている。
ワラジディンは、東から侵入するイスラム勢力との抗争に絶えず巻き込まれてきた。またフン族(Huns)によってもたびたび蹂躙(じゅうりん)されている。そのため、東欧の多くの都市と同様に、街は破壊と再建を絶えず繰り返してきた。中世までのワラジディンの街は、建物の多くが木造建築だったため、戦争のたびに焼きつくされたという。またペストの大流行のときは、多数の死者が出たという記録も残っている。
13世紀のモンゴル軍(Tartars)の襲来のときは、アドリア海に向かって進軍するモンゴル軍を、ベラ4世(Bela
IV)の軍が撃退したという記録も残っている。イスラム勢力との抗争は800年以上も続いたが、ワラジディンのような小都市が、強大なイスラム勢力の攻撃に耐え抜き、しかも決してイスラム化しなかったことは驚くべきことである。ワラジディン市民には、自分たちがカトリック・キリスト教を守ったという自負が誇りとなって、いまも生きているという。
2人の統治者に翻弄され、ヨーロッパから孤立
ワラジディンの最初の危機は、オスマン・トルコがブダペストの宮殿を徹底的に破壊し、ウィーンを包囲したときだった。これはヨーロッパを震撼させた大事件だったが、このときオスマン・トルコが、ウィーンの次に攻略目標とした都市の一つにワラジディンがあったという。幸いオスマン・トルコがウィーンの攻略に失敗して撤退したため、ワラジディンは危うく難を逃れた。それから、オスマン・トルコがクロアチアに侵攻した際、クロアチアの諸侯は団結してこれに立ち向かい、1593年にシサック(Sisak)の近くの戦いでオスマン軍に勝利している。このときワラジディンからも騎兵部隊が参戦しており、この戦いののち、トルコがワラジディンを脅かすことはなくなった。
16世紀のクロアチアは、2人の統治者がいた珍しい時代だった。1人はオーストリアのハプスブルグ家のフェルディナンド(Habsburg
Ferdinand)から支援を受けたスティエパン・バッチャーニ(Stjepan
Batthyany)で、もう1人はハンガリー国王イヴァン・ザポリア(Ivan
Zapolja)の支援を受けたクルスト・フランコパン(Krsto
Frankopan)だった。そのため両国からさまざまな圧力を受けることになった。
一方、ワラジディンの議会は、13世紀にハンガリーと締結された自治権に関する憲章
the
Royal
Borough
を理由に、ハンガリーが支援するフランコパンを支持した。ところがフランコパンという男は、議会をつぶし、ワラジディンを支配しようという野望をもった危険人物だった。この反乱は未然に露見し、彼は1527年に
Martijanec
の近くで銃殺されたが、その結果、ワラジディンとハンガリーの関係は悪化。しかもオーストリア、すなわちハプスブルグ家から反感をかってしまった。これは当時、ヨーロッパ全体から孤立したに等しいことを意味していた。ちょうどこのころに、現在見られる城壁の大部分が完成する。この城壁は、それまであったいくつかの城塞を連結したものである。
16〜17世紀、クロアチア人のアイデンティティが確立
この時代、ワラジディンではドイツ人の商工業者が大いに活躍した。当時のワラジディンにはドイツ人街があり、街ではドイツ語も普及していた。彼らの経済力のおかげでワラジディンの街が発展し、現在の基礎が確立したとさえいわれている。しかしドイツ人商人の経済力が街の経済を独占するくらいまで増大すると、次第にクロアチア人とのあいだで、軋轢(あつれき)や対立が生じてきた。この対立は、16世紀から17世紀にかけての宗教対立で決定的になる。それはプロテスタントのドイツ人勢力と、カトリックのクロアチア人という構図となって顕在化した。プロテスタント勢力はワラジディンをまたたく間に占領したが、市民や議会はこれに反発した。こうした社会的混乱は、ワラジディンの政治システムが、議会政治から貴族政治に移行するまで続いた。
なお、この時代から、クロアチア人のアイデンティティが文字にも表れてくる。たとえば12世紀ごろの初期の文章は、すべてラテン語で書かれ、その後14世紀以降はドイツ語やハンガリー語の書物が多くなるのだが、16〜17世紀ごろから、わずかではあるが、初期クロアチア語の
kaikavian
Croatian
で書かれた書物も登場してくる。この言葉はもともと
kaikavian
という方言で、かなり早い時期から存在は確認されているが、クロアチア語(Croatian
literature)は、当時はまだ公式には禁止されていた言語だったのだ。この言葉の普及には活版印刷の普及が関係しているといわれている。ただしこうした出版物は、グラーツ(Graz:現オーストリア)やブダペスト、ウィーンの印刷機で印刷されたものだろうと考えられている。
「小ウィーン」と呼ばれる華やかな都に
18世紀になると、ワラジディンの政治は共和制から貴族議会制に変貌する。このころのワラジディンは、都市の規模が大きく拡大した時代で、城塞の内外に多くの街並みが整備されていった。また砦のような教会も多く建設された。そして1756年からクロアチア政治の中心となり、クロアチア議会(the
Croatian
parliament)も置かれた。そして1767年に、オーストリア皇女マリア・テレジア(Maria
Theresa)の直接的な影響によって、ワラジディンはクロアチアの首都となった。
首都だった期間は1767〜76年の短い間ではあったが、その時代、ワラジディンは小ウィーン(Little
Vienna)とよばれ、ワラジディンの歴史の中で最も華やかで、繁栄した時代だった。現在の歴史地区や宮殿が整備されたのはこの時代である。貴族政治の文化的影響は、それまでの城塞都市としてのワラジディンの様相を一変させた。馬車の往来に対処するため、道は石畳で舗装され、またバロック様式の建築が次々と建設された。ワラジディンには、アウグスブルグ(Augsburg)から宝飾職人が、イタリアから建築家が、ウィーンから画家が、グラーツから商人が集まった。
ところが、1776
年4月の風の強い日、ワラジディンの街のほとんどを焼きつくす大火事が発生した。この大火事で、それまでの街の経済基盤がことごとく焼失してしまった。余談だが、この火事の発見が遅れたのは
Jakob
Vercek
という14歳の少年が街の見張りを怠ったためだとして、罰せられたという話が伝わっている。
政治拠点から文化・芸術の町へ
ワラジディンの街の再建には20年以上の歳月がかかった。この火事によって街の重要性も失われ、ザグレブ(Zagreb)がトルニ王国(Triune
Kingdom)の首都に返り咲いた。ちょうど同じ時期、フランス革命(1789)が起こり、フランスで王政が打ち倒されブルボン王朝が滅亡する。この影響はヨーロッパ全土に波及し、市民革命運動が各地で勃発した。クロアチアでもその影響は大きく、the
great
Illyrian
Movement
とよばれる運動が起こった。そして、ほどなくしてナポレオンの脅威が北西クロアチアを席巻した。ワラジディンは都市を再び要塞化してこれに対抗し、火事で破壊されそのままになっていた場所には、武器庫や城壁が増築された。また、このとき街中に多くの井戸が掘られ、そうした井戸は現在でも多く残っている。こうした素早い防衛体制は、イェラチッチ(Jelacic)らによるハンガリーでの連鎖的な革命運動の鎮圧に大いに貢献したとされる。
ワラジディンはその後、政治的重要性は失ったが、旧市街の東端にある
Prassinsky-Sermage宮殿は、ワラジディンのシンボルである。現在は博物館に利用されており、15〜16
世紀の絵画が400枚以上収蔵されている。クロアチアの絵画の至宝がこれほどまとまって保管されている場所は、ほかにない。またクロアチアを代表するワラジディン出身の画家も多い。例えばレゼク(Ivo
Rezek,
1898-1979)やスタンチッチ(Miljenko
Stancic,
1926-77)らがそうである。ただ残念なことに、彼らの絵のほとんどが、ザグレブやウィーン、プラハ、ブダペスト、パリに散逸してしまっている。また、第二次世界大戦後のクロアチアの代表的な画家スタンチッチ(Stancic)も、ワラジディンの景観に影響を受けたという。
ワラジディンには、1828年に設立されたワラジディン音楽学校(the
Varazdin
Music
School)がある。これは1817年にウィーンに最初の音楽学校が設立されて、まだたった11年しか経っていないときであり、当時としては画期的なできごとだった。この音楽学校からは、多くの演奏家やオペラ歌手が誕生した。例えば、10弦ギターを最初に組み立てたギタリスト
Ivan
Padovec
や、最初のプリマドンナ
Sidonija
Rubido
は有名である。また、作曲家の
Vanha、Ebner、Werner
らは18世紀から19世紀にかけて活躍した。
現在ワラジディンは、クロアチアで最も進んだ工業都市に発展した。そしてクロアチアの経済基盤を支え続け、今日に至っている。しかしクロアチア独立の際の内戦の影響は、いまだに市民生活に暗い影を落としている。さらに、工業都市といっても、旧式の設備のため西側諸国と生産競争に敗れ、閉鎖に追い込まれる工場も多い。都市としての活力回復がいま、試されている。
参考サイト
http://public.srce.hr/~ndobren/varazdin.htm
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