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▲城館 画像提供=HEPOKさん |
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解説/文=収斂さん 一度もイスラム化されなかった東欧の小都市
ワラジディンの街は、北西クロアチアで最も宮殿や城塞、旧市街の保存状態がよい街である。1000年以上の歴史をもち、記録によれば、最初のクロアチアの王とされるBelecの時代のまでさかのぼる。ワラジディンの城塞は、1181年にクロアチア王のベラ3世(King
Bela
III)によって編纂された宣言文によると、12世紀に最初の砦が建設されたことが記されている。
ワラジディンの最初の危機は、オスマン・トルコがブダペストの宮殿を徹底的に破壊し、ウィーンを包囲したときだった。これはヨーロッパを震撼させた大事件だったが、このときオスマン・トルコが、ウィーンの次に攻略目標とした都市の一つにワラジディンがあったという。幸いオスマン・トルコがウィーンの攻略に失敗して撤退したため、ワラジディンは危うく難を逃れた。それから、オスマン・トルコがクロアチアに侵攻した際、クロアチアの諸侯は団結してこれに立ち向かい、1593年にシサック(Sisak)の近くの戦いでオスマン軍に勝利している。このときワラジディンからも騎兵部隊が参戦しており、この戦いののち、トルコがワラジディンを脅かすことはなくなった。
この時代、ワラジディンではドイツ人の商工業者が大いに活躍した。当時のワラジディンにはドイツ人街があり、街ではドイツ語も普及していた。彼らの経済力のおかげでワラジディンの街が発展し、現在の基礎が確立したとさえいわれている。しかしドイツ人商人の経済力が街の経済を独占するくらいまで増大すると、次第にクロアチア人とのあいだで、軋轢(あつれき)や対立が生じてきた。この対立は、16世紀から17世紀にかけての宗教対立で決定的になる。それはプロテスタントのドイツ人勢力と、カトリックのクロアチア人という構図となって顕在化した。プロテスタント勢力はワラジディンをまたたく間に占領したが、市民や議会はこれに反発した。こうした社会的混乱は、ワラジディンの政治システムが、議会政治から貴族政治に移行するまで続いた。
18世紀になると、ワラジディンの政治は共和制から貴族議会制に変貌する。このころのワラジディンは、都市の規模が大きく拡大した時代で、城塞の内外に多くの街並みが整備されていった。また砦のような教会も多く建設された。そして1756年からクロアチア政治の中心となり、クロアチア議会(the
Croatian
parliament)も置かれた。そして1767年に、オーストリア皇女マリア・テレジア(Maria
Theresa)の直接的な影響によって、ワラジディンはクロアチアの首都となった。
ワラジディンの街の再建には20年以上の歳月がかかった。この火事によって街の重要性も失われ、ザグレブ(Zagreb)がトルニ王国(Triune
Kingdom)の首都に返り咲いた。ちょうど同じ時期、フランス革命(1789)が起こり、フランスで王政が打ち倒されブルボン王朝が滅亡する。この影響はヨーロッパ全土に波及し、市民革命運動が各地で勃発した。クロアチアでもその影響は大きく、the
great
Illyrian
Movement
とよばれる運動が起こった。そして、ほどなくしてナポレオンの脅威が北西クロアチアを席巻した。ワラジディンは都市を再び要塞化してこれに対抗し、火事で破壊されそのままになっていた場所には、武器庫や城壁が増築された。また、このとき街中に多くの井戸が掘られ、そうした井戸は現在でも多く残っている。こうした素早い防衛体制は、イェラチッチ(Jelacic)らによるハンガリーでの連鎖的な革命運動の鎮圧に大いに貢献したとされる。
現在ワラジディンは、クロアチアで最も進んだ工業都市に発展した。そしてクロアチアの経済基盤を支え続け、今日に至っている。しかしクロアチア独立の際の内戦の影響は、いまだに市民生活に暗い影を落としている。さらに、工業都市といっても、旧式の設備のため西側諸国と生産競争に敗れ、閉鎖に追い込まれる工場も多い。都市としての活力回復がいま、試されている。 |