解説/文=収斂さん+浦に〜と
クロアチアのスラヴォニア地方(Slavonia)一帯は、歴史的には古くからハンガリーの影響を強く受けてきた地域である。それはこの一帯が1102年以来、ハンガリー王国の一部だったからである。
しかし16世紀には、スラヴォニアは周辺諸国同様オスマントルコに支配され、オスマントルコの撤退後はハプスブルグ家の影響を受けることになる。そのためこの地域は、近年に至るまで統一した国家というものが存在せず、各都市が独立した国のような形態をとっていた。だからスラヴォニアには、ローマカトリックの影響が強いザグレブ(Zagreb)のような街をはじめ、イスラム教の影響が残る都市など、さまざまな都市が存在しており、民族・宗教の違いなどが複雑にからみ合ったモザイク国家が、すでにこのころから形成されていた。
19世紀の官庁街とセセッション建築
オシエク(Osijek)はスラヴォニアの行政の中心であり、17世紀の後半には、独自の制定法をもっていた。このような都市国家に近い形態も、当時の中央ヨーロッパの各都市でふつうに見られた特徴である。
1779年にはドラヴァ(Drava)川に新しく木製の橋が架けられ、オシエクと
Biljeを結ぶ道が完成した。この橋の建設により、オシエクの街は急速に発展し、商業、経済の中心としての地位を確立する。さらに1884年には路面鉄道(トラム)が建設され、街の規模はさらに拡大。この鉄道に沿った道が、現在でもオシエクの街のメインストリートであり、いまでも19世紀後半の建築物が多く残っている。とくにこの通りの南側には、当時の官公庁の建物が連なって多く残っている。公会堂、司法裁判所、郵便局などがそうである。また、この通りの近くにはセセッション(Secession)の影響が強いレジデンスがあり、貴重な文化財になっている。
(このセセッションとは分離派とも呼ばれ、19世紀後半にウィーンで起こった新しい建築・美術運動、またはその一派のことである。過去の建築様式との訣別を宣言し、直線を主とした機能性重視の様式を提唱した。セセッション建築はわずかに部分的な装飾が見られるほかは装飾が少なく、ウィーンやブタペスト、ドイツに多い。そのため中央ヨーロッパの近代の建築を代表する様式とも見なされている)。
街はその後、第一次世界大戦、第二次世界大戦を通じて大きく発展していく。しかし、この街の市民は街並み保存運動に関して意欲的であり、無理な開発はしていない。そのことが、街を世界遺産に登録する運動に
大きくあらわれている。
オーストリア帝国のスラヴ進出拠点
世界遺産に推薦されたトゥルジャ(Tvrda)はオシエクの中心街。13世紀の要塞跡やオスマントルコ支配期の街の上に、18世紀になって建造された要塞都市である。そこはオーストリア帝国のスラヴ地方進出の拠点となったばかりか、宗教的・文化的な中心地、さらに職商業の要でもあった。
トゥルジャは1689年のトルコ解放直後から建造が始まり、1722年までに主要部分が完成した。外壁は建造以来増強がくり返され、内城地区も増改築を繰り返してきた。トゥルジャは今日、バロック建築の著しい集合体として知られ、それはクロアチアで最も重要な文化遺産の一つとされている。トゥルジャで最も重要なのは8つの要塞と7つの塔をはじめとする、一連の要塞建築群である。それらは当時の建築や技術を示すものとなっている。
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