解説/文=収斂さん
ムーア人の攻撃を迎えうつ天然の要害
サンタレン(Santarem)はローマ帝国時代に植民都市として建設され、サンタレン地方の中心地として栄えた古都である。当時の名前は、ユリウス・カエサル(Julius
Caesar)にちなんで
Praesidi-um
Juliumと呼ばれていた。この街は川幅51メートルのテージョ(Tagus)川の右岸にの高台に建設されている。それはテージョ渓谷(Tagus
valley)は天然の要害であり、ムーア人(the
Moors)の侵攻に対抗するためでもあった。そのためサンタレンの街は、高台から低地に向かって建設されていった経緯がある。
ローマ帝国が崩壊すると、イスラム勢力がイベリア半島から侵攻した。サンタレンの街はあっけなく陥落し、街にはイスラム文化が栄えた。1093年にカスティリア王国のアルフォンソ6世(Alphonso
VI)は、サンタレンの一時的な奪回には成功したが、すぐにまたイスラム勢力に奪われ、1147年に今度はポルトガル王国のアルフォンソ1世が再び街を取り返した。その後イスラム勢力との攻防は1184年まで継続的に続いたが、最終的にはイスラム勢力が撃退された。これ以後、サンタレンはキリスト教勢力の牙城となり、この地方の商業の中心地となった。
歴史を語る大城塞、ミナレットが残る教会...
旧市街にはいまでもカルカソヴァ(Alcacova)城とその城壁が残っている。この城塞は中世に建設されたものだが、いまではほとんどが廃墟であり、あまり修復されていない。だが建設された当時は、ポルトガルでもとくに規模の大きいレジデンツの一つだった。
旧市街のある高台からそのまま下り、テージョ川のほとりまで来ると、リベイラ・デ・サンタレン(Ribeira
de
Santarem)とよばれる港がある。この港は昔から魚や農産物、ワイン、オリーブオイルとの交易で栄えた港で、サンタレンの経済を支えた港である。当時の対岸には、Almeirim
という巨大なレジデンツがあったが、これは1755年の大地震で倒壊し、以後、再建はされていない。しかしテージョ川に架かる美しい橋はいまでも見ることができる。
そのほかに旧市街の主な建築物は以下のようなものがある。ミラグロ教会(Igreja
do
Milagro:初期ルネサンス様式の教会)、サンタ・リタ教会(Santa
Rita:イグナティウス・ザヴィエル[Ignatius
Xavier]の絵を所蔵する。彼は1724年にこの教会で生まれた)、サンタ・マリア教会(Santa
Maria:1244年)、サン・フランシスコ教会(San
Francisco:13世紀建設)、ソー・ジョアン教会(So
Joao:もともとはムーア人のイスラム教会だった。現在でもミナレットの一部が残っている)、サンタ・イルラ教会(the
church
of
Santa
Irla
[St
Irene]:サンタレンの町の名前の由来になった教会)などである。
サンタレンからは大航海時代の有名な探検家たちが何人か輩出している。たとえば15世紀の有名な航海者の
John
of
Santarem
がこの街から生まれている。また、後期ゴシック様式の教会のグラサ修道院(Convento
da
Graca)には、1502年にポルトガル人として最初に喜望峰に行ったカブラル(Pedro
Alvares
Cabral)の墓がある。それから16世紀には名君といわれるエンリケ1世(Henry
I,
1512-80)が生まれ、この地で没している。
サンタレンは1868年に市に昇格し、1900年にリスボンからの鉄道が敷設された。これはポルトガルでは古いほうである。現在のサンタレンは静かな古都として観光客に人気がある。
参考サイト
http://6.1911encyclopedia.org/S/SA/SANTAREM.htm
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