解説/文=収斂さん
ブルガールの建築学的・考古学的複合史跡(Bolgar
Architectural
and
Archaeological
Complex)は、10世紀から15世紀にかけて栄えたイスラム教国家ヴォルガ・ブルガール(Volga
Bolgari)の政治、経済、文化の中心地であり、少なくとも13世紀から14世紀にかけては、その首都だった。しかし現存する建物はほとんどが廃墟同然であり、それ以外は14世紀から15世紀にかけて街を取り囲むように建設された、長さは5.63キロの城壁と堀の遺構が少し残っているにすぎない。
荒廃したのち、早くも17世紀に調査を開始
ブルガールの歴史については、まだあまり詳しくわかっていない。とくに建国初期のことについては不明なことが多い。ブルガールは14世紀後半から15世紀初頭にかけて、ボルガ川の海賊でもあったロシア系の遊牧民国家「黄金のオルド」(金帳汗国)(Golden
Horde)のハーンにより、度重なる攻撃を受けた。このため街のほとんどが破壊され、モスクワ大公国のバジリー2世が派遣した騎兵の大軍(指揮官はFyodor
Pestroy皇子)によって滅亡した。現在も残る長大な城壁跡は、その激動の時代に建設されたものだ。
蹂躙(じゅうりん)と破壊ののち、この都市は二度と再建されることはなかった。16世紀中ごろ、カザン・ハーン国の捕虜として20年以上をここですごし、『カザンの歴史』(The
History
of
Kazan)という年代記を執筆した歴史家は、当時のブルガールについて「いまは誰もいなくなった街」と表現し、わずかなイスラム教徒がときたま聖堂跡を巡礼する以外は、完全な廃墟になっていると記している。
それからずっと後になって、17世紀のフョードル・アレクセヴィッチ王(Fyodor
Alexeevich,
1661-82)の治世下において、当時のロシア国内の古代遺跡や遺構について調査する命令が発布され、1712年にブルガールの最初の学術調査が行われた。この調査を行った人物がミハイロフ(Deacon
A.Mikhailov)で、彼は詳細な記録を残している。
それ以来ブルガールは考古学者ばかりでなく、一般の人たちにも注目される遺跡となり、18世紀から19世紀にかけて旅行者や作家、為政者、軍人、画家などさまざまな人たちが多く訪れた。たとえば、ピョートル1世(Peter
I)、エカテリーナ2世(
Catherine
II)、ともにロシア内地調査を行ったパラス(P.S.Pallas:ドイツ人生物学者)とレペヒン(I.I.Lepekhin:ロシア人植物学者)などがそうである。彼らの多くが、当時のブルガール遺跡について詳しい記述や絵画を残したが、残念なことにそういった資料はロシア革命や第二次世界大戦の混乱で多くが紛失してしまった。
世界で最も北に栄えたイスラム国家の遺跡群
ブルガールには現存する建物があまり残っていないが、13世紀から14世紀にかけて建設された石やレンガの建物遺構や石碑が、現在までに100以上発見されている。主なものは、北の霊廟群(the
Northern
Mausoleums)、東の霊廟群(Eastern
Mausoleums)、黒の宮殿(the
Black
Palace)、赤の宮殿(the
Red
Palace)、白の宮殿(the
White
Palace)、ギリシャ宮殿(the
Greek
Palace)、大モスク(the
Great
Mosque)、小さいミナレット(the
Smaller
Minaret)、カーンの墓(the
Khan's
Tomb)、カーンの風呂跡(the
Khan's
Bath)などである。こういった遺構は、13〜14世紀前半に絶頂期を迎えたブルガールの栄華をいまに伝えている。
ブルガールの本格的な学術調査は1954年から始まり、いまも継続して行われている。また、遺跡の保存計画も進行し、発掘された考古遺物を保管する博物館も1962年に建設された。この博物館は、ブルガールの考古学的な遺物ばかりでなく、古銭学的、民族誌学的に重要な遺物も収集している。さらに遺跡を描いた古い絵画、古写真までも幅広く収蔵されており、ブルガールの多角的な研究を助けている。
そして1969年には、ボルガ州歴史考古保存委員会が組織され、遺跡の保護を目的に活動している。最近の研究成果によれば、ブルガールの街は10〜11世紀ごろに、現在の遺跡の北東辺りから都市の建設が始まり、その後発展していったことが突き止められた。さらに最近の研究者の多くが、ブルガールは10〜11世紀にすでに首都だったと考えはじめている。
現在、この遺跡の面積は3.8平方キロだが、周辺の保護対象地域まで入れると4.83平方キロになる。ブルガールは13〜14世紀のブルガール=タタール建築の唯一の遺構であり、世界で最も北で栄えたイスラム教国家の遺跡ともいわれている。また、建物は廃墟同然であるが、保存対策は極めて良好である。この地域で栄えた同時代のほかの遺跡がまったくといっていいほど残っていないことを考えると、ブルガールが世界遺産に登録される可能性は高いと思われる。
参考サイト
http://www.tatar.ru/english/append91.html
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