解説/文=収斂さん
鉄道建設に不向きなシベリアの大地
1891年3月1日、ロシア皇帝アレクサンドル3世がヨーロッパとアジアを結ぶシベリア鉄道建設を宣言したとき、ほとんどの人が、あまりに荒唐無稽な勅書と思った。当時もいまもシベリアには湿地が多く、そんなやわらかい土壌の上に鉄道を敷設するなんて最初から不可能に思われていた。またシベリアにはレナ川、エニセイ川、オビ川などの大河をはじめ、無数の河川が存在し、そういった河川は春の雪解け水で増水をくり返し、流れも容易に変わった。
さらにシベリアの広大な平原は高低差が極端に小さいので、増水した水は容易に洪水を引き起こし、あふれた水もなかなか引かない。たとえば、水門一つ建設するだけで流れが逆行するほど高低差の低い場所も多い。だから、ちょっと大きな河川の周囲には、数十キロにもわたって広大な湿地が存在していることがふつうで、その上に鉄道や道路を建設するためには、河川敷の上に高架化した線路を走らせ、川の氾濫にも備える構造上の工夫が必要であった。ところが酷寒の冬には湿地が凍結し、土壌の撹乱や地形の変形まで引き起こし、大規模な構造物の建設はもともと厳しかった。しかも白夜も長く、工事可能な季節も短かった。当時の人にとっては、シベリア鉄道建設はあまりに無謀な計画だった。
近代化の過程で重要性を増した東方への備え
19世紀のロシアは、パン=スラヴ主義という民族主義運動が叫ばれ、バルカン半島〜黒海沿岸への南下政策が推し進められ、対外戦争をくり返した。しかしクリミア戦争の敗戦以後は、ロシアは国内の近代化の必要性を痛感し、工業化を積極的に行った。当時のモスクワの交通手段ですら、まだ馬車鉄道が主役であり、工業化は遅れていたのだ。
その後、1877年の露土戦争では、ロシアはトルコとの戦いを有利に進め、翌年、ロシアに有利なサン=ステファノ条約(1878年)を結んだ。ところが、この条約に対しオーストリア、英国、それに調停役のドイツ(このときの宰相はビスマルク)といった列強が反発し、この条約の破棄を余儀なくされた経緯があった。(代わりに1878年にベルリン条約が結ばれる。このとき結ばれたサン=ステファノ条約やベルリン条約が、のちのバルカン半島問題の火種となり、やがて第一次世界大戦から近年のボスニア紛争を引き起こす原因にもなる)。
当時のロシアは技術的にもかなり遅れており、広大な領土を維持するだけでも精一杯な状況だったが、戦争は止めなかった。そして一連のバルカン半島南進の失敗以後は、不凍港の確保を極東に求め始めるのだった。広大な領土を誇った中国(清)とロシアとは、ネルチンスク条約締結以来、目立った武力衝突はなかったが、アヘン戦争後の弱体化した清王朝に、英国、フランス、米国といった欧米諸国が次々と開港や租借地を要求し、比較的容易に外交的特権を得ていた。そこでロシアでも東方に利権を拡大する政策が進められた。その最初がアロー号事件で、直接的には全然関係ないはずのロシアも、ほかの列強と同じく利権を主張し、その利権を得ることに成功している。このロシアの東進は、極東アジアに新たな緊張をもたらした。その結果、ロシアは国費のほとんどを投入してでもシベリア鉄道を完成させることが重要課題となった。シベリア鉄道建設工事は、当初からウラル山脈のふもとの都市チェリャービンスクから、ウラジヴォストクまでを結ぶ予定で始められた。これには当時、緊迫していた中国・日本との戦争に準備するためでもあった。
鉄橋は氷河にも耐えうる強度で設計
鉄道建設の指揮はアレクサンドル3世から、その皇子でロシア・ロマノフ朝(1613-1917)最後の皇帝になるニコライ2世(1868-1918)に引き継がれた。1891年5月にニコライ2世(当時はまだ皇太子)はウラジヴォストクにて起工式と宣言を行っている。これが日本にとってはものすごい軍事的圧力になったのはいうまでもなく、シベリア鉄道の完成前に日露戦争が勃発したことは、日本側から見れば当然の帰趨(きすう)であり、ロシア側から見れば敗因の一つだった。
シベリア鉄道建設は、国防上の理由から外国資本の参加を一切行わない方針で建設が進められたが、新しい技術は積極的に導入した。とくにフランスの貢献が大きい。この鉄道の建設によって新たに開発された土木技術は数え切れない。シベリア鉄道の建設が、ロシアの土木工学の技術水準を大きく飛躍させる契機となったのは事実である。
なかでも大河に架けられた鉄橋には最新の技術が導入された。当初案では、大河には橋を架けず、船で鉄道を連絡する案が有力だった。しかし増水による船の安全性を考えた結果、巨大な支柱を多く、深く埋め込んだ鉄橋の架橋案が採択された。軟弱で流動性のある基礎の工事は慎重な測量から始められ、場所によってさまざまな方法で建設が進められたが、ほとんどの鉄橋がこの巨大な支柱の導入で解決した。そのなかでもエニセイ川に架かる鉄橋はほとんどが当時のままであり、シベリア鉄道建設の記念碑的存在になっている。この鉄橋は河川の凍結による氷河の発生にも対抗する強度で設計された。しかしほとんどの鉄橋同様、老朽化が進み、緊急の補修が必要である。
いまなお世界最長の旅客鉄道
もう一つ、シベリア鉄道建設工事で最も困難をきわめた場所が、バイカル湖を南に迂回する区間の工事だった。この区間はバイカル湖沿岸線と呼ばれ、バイカル湖沿岸線の長さ約260キロである。ここは鉄道を建設するために、高さ300メートル以上の堅い岩盤でできた山をくりぬき、沿線に445の鉄製橋、10の石造橋、10の木造橋、491の建造物が建設された。この路線が完成したとき、難工事の完遂記念として、スルジャンカの町に大理石の豪華な駅舎が建てられた。
シベリア鉄道は1916年、着工からたった23年間の早さで完成した。1905年までに、極東までの行程の大半が完成したが、これは、日本との戦争に間に合わせるために突貫工事で建設が進められたためである。このシベリア鉄道と在来の鉄道を結ぶことで、モスクワから日本海までが一本の鉄道で結ばれ、その距離は6000キロを超えていた。さらに1916年の完成時の総延長は1万2453キロ。そのうち旅客線9,228キロ、複線部分3,899キロは、いまでも世界最長である。また投入された建設費も莫大で、14億5541万3000ルーブルという、当時としては天文学的数字の資金が投じられた。
しかし完成した1916年当時は既に欧州では第一次世界大戦が始まっており、ロシアはドイツと国境付近で塹壕戦を展開していた。ロシアは極東に関心を向ける余裕がなくなるどころか、戦費が財政を厳しく圧迫した。また、巨費を投じて艦隊を組織し、大英帝国海軍に次ぐ海軍力と恐れられたバルチック艦隊は、日本海海戦で数隻を残して全滅しており、同じく巨費を投じたシベリア鉄道も日露戦争にほとんど貢献しなかったので、民衆にはこの鉄道が国費の無駄づかいに映った。当時のロシアは1905年の「血の日曜日事件」以来、政府と民衆との対立は一触即発の状況で、また戦艦ポチョムキンで水兵が反乱するなど、民衆ばかりでなく軍人までもがロマノフ王朝に叛意をあらわにし、各地で反戦デモや武力衝突がくり返された、みぞうの混乱期だった。そのためレーニンらによる社会主義革命が実現すると、シベリア鉄道建設を指揮したニコライ2世は、一族全員とともに殺害され、シベリア鉄道の発展を見とどけることはできなかった。それどころかシベリア鉄道を使って、富裕階級や政治犯などがシベリアの流刑地へ送られたのは皮肉な話である。
しかしシベリア鉄道の建設に、非常に多くの人々が意欲的に参加したのは事実である。また、この鉄道のおかげで新しく発展した都市も多い。たとえば西シベリアのノヴォシビルスク州の州都ノヴォシビルスクは、世界でも類を見ない速さで人口が100万人を超えた都市として有名である。この大都市の建設のきっかけも、オビ川に最初に架けられたシベリア鉄道の鉄橋(1897年建設:高さ17メートルで7つの橋桁を持つ長大橋)だった。
一つの鉄橋だけでなく、「鉄道」としての登録が望ましい
現在のシベリア鉄道は鉄道マニアに、とくに人気の路線である。なかでもエニセイ川の鉄橋やバイカル湖沿岸線の鉄橋群は人気が高い。しかしシベリア鉄道の本当の意義はそんなものではない。おそらく21世紀にこそ、シベリア鉄道の存在意義が高らかに評価されるだろう。この鉄道は、人類の土木工学史上に燦然(さんぜん)と輝く偉大な業績の一つであり、大いなる栄誉を与えられるべき奇跡の構造物である。鉄道の世界遺産としては1998年にセンメリング鉄道(オーストリア)、99〜2008年にインドの3カ所の山岳鉄道、08年にレーテッシュ鉄道(スイス・イタリア)が、それぞれ登録されている。しかしシベリア鉄道に用いられた当時の新技術は、群を抜いている。だから当然のように、これも世界遺産登録されるべきだろう。
当時のままの現存箇所が少なくなっていることを考慮すれば、シベリア鉄道全線の世界遺産化は無理であるとしても、エニセイ川の最初の鉄道橋だけではなく、バイカル湖沿岸線など、ある程度の長さの路線区間を世界遺産化する方がふさわしいと考える。実際、現在のシベリア鉄道では、入り組んだバイカル湖沿岸線を通らない新しい路線が完成し、バイカル湖沿岸線は保存鉄道としてのみ存在している。長年すたれていたこの路線だが、近年このバイカル湖沿岸線を見直そうという動きがあり、世界的観光地も視野に入れたさまざまな保存運動が展開されている。
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