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写真提供=漣さん |
解説/文=収斂さん 近づくことさえ危険な渓谷の野戦病院 スロベニア・パルチザン軍第9兵団(the 9th Corps of the Slovene
Partisan
Army)は、Primorskoのドイツ軍と激しい戦闘をしてきた部隊だった。この部隊は1943年11月に
Cerkno地域から
Gorenjska地域へ、傷病兵とともに作戦を展開した。しかし度重なる戦闘で将兵の多くが負傷しており、Cerknoに秘密の野戦病院を建設する計画がなされた。病院建設地は
Janez
Peternelj
によって決定され、すぐに医師の
Viktor
Volcjak
に具申された。そして1943年の後半から建設工事が始まった。つまりフラニャ・パルチザン病院は、もともとはこの第9兵団の傷病兵を治療したり、場合によっては安全な場所に移送することを目的にした、小さな野戦病院でしかなかった。 |
病院はその後、規模を拡充し、設備もすばらしく改善されていく。しかし、ときどきドイツ軍の攻撃を受けることもあった。最初の攻撃は44年4月24日。この病院は渓谷のすぐ近くにあるため、守るには不向きだった。このときの戦闘ののち、フラニャはこの病院の一時撤退を決定し、動けない重傷兵28人も含め全員が、一時ここを離れた。
フラニャ・パルチザン病院はいくつかの病棟から構成され、まわりを塀が取り囲んでいる。そして中央に区画B(Department
B)という、重傷兵や重病人のための看護施設があった。この棟は100人以上を収容できる広さがあった。フラニャ野戦病院で治療を受けた人は900人以上いるが、区画Bではその半数以上の522人が治療を受けた。近づきがたい場所にあり、しかも緊急の外科手術も行わなくていけない状況もしばしばあったが、負傷者の治療はたいてい成功したといわれている。必要な医薬品はときどき連合軍からも送られてきた。 |
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フラニャ・パルチザン病院の最大の危機は1945年の春に起こった。45年3月24日、ドイツ軍はこれまでで最大の攻撃をしかけ、戦火は病院のすぐ近くまで迫った。谷の入り口は戦場になり、銃弾が激しく飛びかった。しかし病院は何とかもちこたえ、たいした被害は出なかった。この病院への攻撃はこれが最後だった。
1989年1月にこの病院を天災が襲った。
Veliki
Njivecの斜面で発生した大雪崩が病院に続く道を埋め、病院の3棟を破壊し、ほかの多くの病棟も甚大な被害を受けた。さらにこのときの雪崩で大きな岩が渓谷をせき止めたため、あふれた水で病院一帯が冠水した。幸い収蔵品の多くが博物館に避難して無事だったものの、建物は予想以上の被害をこうむり、修復は翌90年6月10日までかかった。 |