フラニャ・パルチザン病院
Franja Partisan Hospital


国名 スロベニア
分類 文化遺産
所在地 首都リュブリャナの西およそ30km


審議歴
2000年 暫定リストに記載。
2003年 不登録 … 登録基準を満たしていない。スロベニア政府は基準(4)(6)に該当するものとして推薦していた。(4)に関して、スロベニア政府は「このタイプの建築群は限られた状況下でのみつくられ、しかも突貫工事でつくられるという、きわめて特殊かつ珍しいもの」としていたが、ICOMOSは、全世界的な普遍的価値は認められないと判断。(6)に関しては、スロベニア政府は「過酷な戦争のさなかにあって、人間性を垣間見られる活動がなされた」としていたが、ICOMOSは、このような発想は1864年のジュネーヴ条約にも反映されており、取り立てて評価するほど目新しいものではないと判断した。


 



写真提供=漣さん
   

解説/文=収斂さん

近づくことさえ危険な渓谷の野戦病院

  スロベニア・パルチザン軍第9兵団(the 9th Corps of the Slovene Partisan Army)は、Primorskoのドイツ軍と激しい戦闘をしてきた部隊だった。この部隊は1943年11月に Cerkno地域から Gorenjska地域へ、傷病兵とともに作戦を展開した。しかし度重なる戦闘で将兵の多くが負傷しており、Cerknoに秘密の野戦病院を建設する計画がなされた。病院建設地は Janez Peternelj によって決定され、すぐに医師の Viktor Volcjak に具申された。そして1943年の後半から建設工事が始まった。つまりフラニャ・パルチザン病院は、もともとはこの第9兵団の傷病兵を治療したり、場合によっては安全な場所に移送することを目的にした、小さな野戦病院でしかなかった。
  この野戦病院は、近づくことさえ危険な Pasica渓谷に建設され、1943年12月23日に最初の傷病兵を受け入れた。そして44年1月22日、病院の責任者として女性内科医の Franja Bojc-Bidovec が選出された。彼女は戦争終結まで、この野戦病院で医療活動に従事することになる。彼女の名にちなんでこの病院は、フラニャ・パルチザン病院という名前になった。ただし病院の正式名称は、スロベニア軍パルチザン病院フラニャ(The Slovene military partisan hospital Franja)といい、略称 SVPB Franja とも書く


敵軍の攻撃から病院を守ったデマ

  病院はその後、規模を拡充し、設備もすばらしく改善されていく。しかし、ときどきドイツ軍の攻撃を受けることもあった。最初の攻撃は44年4月24日。この病院は渓谷のすぐ近くにあるため、守るには不向きだった。このときの戦闘ののち、フラニャはこの病院の一時撤退を決定し、動けない重傷兵28人も含め全員が、一時ここを離れた。
  病院はその後各地を転々とするが、44年6月22日、再びこの場所に戻ってきた。ただし、病院の存在と場所を密告するスパイの不安がぬぐいきれなかったので、この病院はすでに攻撃によって完全に破壊されたというデマを流し、敵の目をごまかした。さらに、この病院に移送されるとき、患者は Pasice村の近くのチェックポイントで身分検査され、目隠しをされて運び込まれた。また病院への通路は、安全のため、急流のそばの道1本だけにし、そこに防御陣地が建設された。病院のシェルターは岩のごつごつした崖の斜面につくられた。


飢えを覚えた者は一人もいなかった

  フラニャ・パルチザン病院はいくつかの病棟から構成され、まわりを塀が取り囲んでいる。そして中央に区画B(Department B)という、重傷兵や重病人のための看護施設があった。この棟は100人以上を収容できる広さがあった。フラニャ野戦病院で治療を受けた人は900人以上いるが、区画Bではその半数以上の522人が治療を受けた。近づきがたい場所にあり、しかも緊急の外科手術も行わなくていけない状況もしばしばあったが、負傷者の治療はたいてい成功したといわれている。必要な医薬品はときどき連合軍からも送られてきた。
  また、Franc Derganc を中心とした外科手術専門の医療チームの定期的な巡回診療も行われていた。当時の厳しい状況で、これほど充実した野戦病院はほかにはなかった。この病院で治療を受けた兵士の国籍はさまざまだったが、この病院で飢えを覚えた人は皆無だったという。
  この病院は、最終的に発電室やX線室も含めて12の病棟が建設された。また、この病院で開発された整形外科用医療器具も多い。殺菌した道具や衣服を積極的に使用した経験は、戦後大いに生かされた。また1944年8月に第9兵団から旅団が組織され、80人の負傷兵をフラニャ・パルチザン病院と、パヴラ(Pavla)のパルチザン病院からノトランスカ(Notranjska)の飛行場に移送し、連合軍の飛行機で南イタリアの安全地域に避難させる作戦が実行された。この作戦は第9兵団の行った最も素晴らしい作戦の一つとして語られている。







写真提供=漣さん


第二次大戦後、永久保存が決定

  フラニャ・パルチザン病院の最大の危機は1945年の春に起こった。45年3月24日、ドイツ軍はこれまでで最大の攻撃をしかけ、戦火は病院のすぐ近くまで迫った。谷の入り口は戦場になり、銃弾が激しく飛びかった。しかし病院は何とかもちこたえ、たいした被害は出なかった。この病院への攻撃はこれが最後だった。
  この戦いののち、すぐに戦争は終結。そして45年5月5日、医師ら病院スタッフと98人の傷病兵は病院を去り、フラニャ・パルチザン病院は野戦病院としての役目を終えた。戦後、この偉大な病院はスロベニアの人々の感動を呼び起こしつづけた。病院はそのまま保存されることになり、道具の多くが博物館(Idrija Municipal Museum)に保管されることになった。しかし治療の甲斐もなくこの病院で亡くなった人は61人いる。彼らの亡骸は、この病院に通じる小道のそばに埋められたが、当時は、こういった埋葬地や死亡者の数は秘密にされていた。亡骸には、身元と死亡原因を示す小さな紙切れだけが、ガラス瓶に詰められてそばに置かれただけだった。


伝説的な病院として守り継ぐ

  1989年1月にこの病院を天災が襲った。 Veliki Njivecの斜面で発生した大雪崩が病院に続く道を埋め、病院の3棟を破壊し、ほかの多くの病棟も甚大な被害を受けた。さらにこのときの雪崩で大きな岩が渓谷をせき止めたため、あふれた水で病院一帯が冠水した。幸い収蔵品の多くが博物館に避難して無事だったものの、建物は予想以上の被害をこうむり、修復は翌90年6月10日までかかった。
  今日、この伝説的な病院は、パルチザンの活動を支えた栄光のシンボルとして、国の保存対策がとられている。そして Viktor Volcjak と Franja Bojc-Bidovec は国民的英雄とされている。また、この危険な野戦病院で献身的看護に従事した医師たち、たとえば Franc Derganc、Vladislav Klein、Edvard Pohar、Bogdan Brecelj、Franc Podkoritnik-Ocka、Antonio Ciccarelli-Anton(イタリア人)らも尊敬をもってたたえられている。



参考サイト
http://www.arctur.si/obcina_cerkno/franjaeng.html
http://www.muzej-idrija-cerkno.si/carmina/franja.html






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