解説/文=好古学のすすめさん
1.環境と歴史
(1)環境
ヘルモン山に降る雪や雨が、南西麓でいくつもの泉に湧き出してダン川となる。ダン川は南流し、フラ渓谷を下ってヨルダン川となり、ガリラヤ湖を経て死海に注ぐ。ダン川はヨルダン川の源流の中で最大のものであり、水量の約半分(年間2億3800万立方メートル)を供給している1。
ダン川の水源の泉の周囲には、ゲッケイジュやシリアトネリコなどの木々が生い茂り、カイロトゲマウスやマダラサラマンドラが生息するなど、動植物相も豊かである。最も大きな泉の東側に、面積約20ha、高さ18mの遺跡丘(テル)があり、遺跡丘の中にも泉がある。テルを含む水源地帯約50haがテル・ダン自然保護区となっている。暫定リストの名称は「テル・ダンおよびヨルダン川の水源」だった。
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ヘルモン山(2,814m、アラビア語ではシャイク山)はレバノン、シリア、イスラエルの国境をなすアンチ・レバノン山脈南西端にある峰々を指す。ヘルモン山南麓のゴラン高原に水源のあるバニアス川、南西麓のイスラエル国内に水源のあるダン川、西麓のレバノン側に水源のあるハスバニ川が合流してヨルダン川となる。流域であるフラ渓谷の一部が「大地溝帯の渡り鳥の飛路、フラ渓谷」として世界遺産に推薦されたが、2006年の世界遺産委員会で登録不可と判断された。
(2)聖書時代の歴史
ダンの町を通る古代の交通路は、ダマスコ(ダマスカス)とカナン(パレスチナ)地方を結んでいたようである。旧約聖書には、アブラハムが甥のロトが捕虜になったと聞いて、マムレからダンを経てダマスコの北まで追跡して取り戻したという記事がある(創世記14章12-16節)。
イスラエル人がカナンに定住する以前のダンの町は、ライシュ2 またはレシェムと呼ばれていたが、イスラエル12部族の一つであるダン族が征服し、町の名をダンと改めた(士師記18章、ヨシュア記19章47節)。これ以降、「ダンからベエル・シェバ」3
と繰り返し述べられているように(士師記20章1節など)、ダンは古代イスラエルの北境の町となった。
分裂王国4 時代、北イスラエル王国初代の王、ヤロブアム1世はダンとベテルの2か所に祭壇を築き、金の子牛像を置いた(列王記上12章28-29節)5。これは統一王国時代のエルサレムに代わるものとして、北イスラエル王国の北と南に宗教上の中心地を設けたものである。北イスラエル王国は約200年続いたが、アッシリアによって征服された(紀元前722年)。
2 ライシュの名はエジプト呪詛文書やマリ文書にも現れる。
3ベエル・シェバは南境の町。その遺跡テル・ベエル・シェバは、「聖書時代の遺跡丘−メギド、ハツォール、ベエル・シェバ」の一つとして2005年に世界遺産に登録された。
4 サウル、ダビデ、ソロモンと続いたイスラエルの統一王国は、ソロモン死後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂した。
5 聖書の記事は偶像崇拝だとして非難しているが、現在では金の牛は見えざる神の台座だったと考えられている。
(3)その後の歴史と発掘調査
北イスラエル王国滅亡後もダンの町は存続した。後4世紀にカイサリアの司教エウセビオスは、ピリポ・カイサリアの西方にダンの町があると書いている6。
やがて町は放棄されて遺跡丘となり、アラビア語で裁きの丘という意味のテル・エル・カディと呼ばれるようになった。1838年にエドワード・ロビンソン7
は、ここが聖書に記されたダンであると認めた。1939年にテルの南約2キロにキブツ・ダンが建設された。
テル・ダンの発掘調査は、1966〜99年まで元イスラエル考古・博物館局長(74年からヘブライ・ユニオン大学ネルソン・グリュック聖書考古学研究所長)のアヴラハム・ビランの調査団によって実施され、紀元前18世紀頃のアーチ門やダビデの家と記された碑文など、数々の発見があった。ビランは90歳で引退し、2000年以降の発掘は同大学のダヴィド・イランとニリ・フォックスに引き継がれている。出土物は同大学スカーボール博物館や、キブツ・ダンのベト・ウシシュキン博物館などに保管・展示されている。
6 エウセビオスの地理書「オノマスティコン」には、ピリポ・カイサリアの西4ローマ・マイルのところにダンの町があると書いている。カイサリアはローマ時代にヘロデ大王が築いた町。ピリポ・カイサリアはヘロデ大王の子ピリポがヘレニズム時代の町を拡張して名付けた町。
7 アメリカの聖書学者。パレスチナを踏査し、聖書考古学の基礎を築いた。
2.発掘調査の成果
(1)青銅器時代(カナン時代)
テル・ダンは新石器時代時代の約7000年前ごろから人が住んでいた。前期青銅器時代(前3150年ごろ〜同2000年ごろ)に土塁で囲まれた都市となった。
(a)泥煉瓦のアーチ門
テル・ダンで最も重要な遺構の一つは、1979年に遺跡丘の南東隅で発見された中期青銅器時代(紀元前2000年ごろ〜同1550年ごろ)第Ⅱ期、紀元前18世紀ごろの門である。この門は泥レンガ製で、両側の2つの塔を3組のアーチでつなぎ、塔の中に4つの空間が設けられている(平面図参照)。
きわめて保存状態がよく、アーチ部が完全な形で残っていたのは奇跡的である。完成後あまり年月のたたないうちに土塁が拡張され、その中に埋められたためと考えられている。また、この発見は、アーチの技術がそれまで考えられていたよりはるかに古くから存在したことを明らかにした。これまでに発見された最も古い8
完全なアーチである。
外気にさらされるだけで泥レンガは崩れていくため、覆屋がかけられ、中央と内側(西側)のアーチは埋め戻され、ゲッティ保存研究所の協力で記録と修復計画が作成されたが、外側(東側)のアーチは発掘直後のように明瞭ではない。このため、ワールド・モニュメント・ウォッチは2000年、この門を「危機に瀕する文化遺産100」の一つに選定している9。2005年には、イスラエル考古局によって、古代と同様の方法でつくった泥レンガで外観を復元して保存・公開する工事が行われた。
写真(http://www.bibleplaces.com/images/Dan_Middle_Bronze_mudbrick_gate2_tb_n011500_wr.jpg)
平面図(http://www.vkrp.org/studies/historical/iron-age-gates/images/image004.jpg)
8 アシュケロン(Ashkelon、現イスラエル領内)で発掘された紀元前19世紀のアーチの遺構が、頂部が欠けているものの世界最古とされている。
9 ゲッティ保存研究所は、視覚芸術および人文科学に貢献することを目的とする民間非営利組織のJ・ポール・ゲッティ財団(1953年設立、本部ロサンゼルス)によって運営されている。ワールド・モニュメント・ウォッチは、危機に瀕した文化遺産の修復の提唱や資金援助、調査などを行っている民間非営利組織の世界記念物基金(65年設立、本部ニューヨーク)のプログラムで、1年おきに「危機に瀕する文化遺産」を100件ずつ選定している。2002年と04年には広島県の鞆の浦が選定されている。
(b)後期青銅器時代のミケーネ土器
中期および後期青銅器時代の土器は、多くの人口が定住し繁栄していたことを物語る。紀元前14世紀の墳墓(387号墓)からは、ミケーネから輸入された大量の土器や象牙製品が発見された。とくに戦車の図が描かれた壺は見事で、エルサレムのイスラエル博物館に収蔵されている。
(2)鉄器時代(イスラエル時代)の祭壇と城門・城壁
紀元前12世紀にダン族の征服があったと考えられる。
(a)祭壇
テルの北西辺にはイスラエル王国初代の王、ヤロブアム1世時代に築かれ、ホセア、ヤロブアム2世の時代に拡大されたと考えられる「至高所」の遺構がある。
この祭壇はアッシリアの征服後も祭祀の場として利用された。1976年に発見されたヘレニズム時代のギリシア語・アラム語2か国語碑文には、「ゾイロスがダンの神に誓願する」と記されていた。現在イスラエル博物館に収蔵されているこの碑文によって、テル・エル・カディが、聖書に記されたダンであることが確認されたのである。
(b)城門と城壁
テルの南側の斜堤に巨大な城門が築かれている。城門は土塁の外側の外門と土塁中腹の内門からなり、石敷きで石舗装の道路がともなっている。破壊された後再建されており、ヤロブアム1世により築かれ、ダマスコの王によって破壊されたのち、ホセアによって再建されたものと考えられている。
(c)ダビデの家碑文
1993年に城門の前の石舗装の道路から発見されたアラム語の碑文の断片には、「ダビデの家」という語句があることが確認された。ダビデの名の聖書外史料として、最初のものである。これによりダビデの実在がほぼ裏づけられた。この碑文も現在イスラエル博物館に収蔵されている。
主な公式サイト
・ユネスコ世界遺産センター(暫定リスト)
http://whc.unesco.org/en/tentativelists/1469/
・イスラエル外務省
http://www.mfa.gov.il/MFA/History/Early%20History%20-%20Archaeology/Archaeological%20Sites%20in%20Israel%20-%20Dan-%20The%20Biblical
・イスラエル自然・公園局
http://www.parks.org.il/ParksENG/company_card.php3?CNumber=508953
・イスラエル古物局保存部
http://iaa-conservation.org.il/Projects_Item_eng.asp?subject_id=10&site_id=13&id=27
主な日本語文献
○関谷定夫(著)「考古学でたどる旧約聖書の世界」丸善、1996年
○ロバータ・L・ハリス(著)、大坪孝子(訳)「図説 聖書の大地」東京書籍、2003年(原著1995年)
○A・マザール(著)、杉本智俊・牧野久実(訳)「聖書の世界の考古学」リトン、2003年(原著1990年)
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