トラカイ国立歴史公園
Trakai Historical National Park


国名 リトアニア
分類

文化遺産

所在地 首都ヴィリニュス西郊


審議歴
2003年 暫定リストに記載。
2005年

辞退 … ICOMOSより「不登録」勧告を受け、辞退した。ICOMOSは、トラカイ歴史国立公園が適切な保護管理下におかれていて、国家的に重要な史跡であることを認めたが、世界的に顕著な価値をもつものとはいえないと判断した。リトアニア政府は(1)(2)(3)に該当するとして推薦していたが、ICOMOSは以下のように評価した。
(1)は、リトアニアの推薦書ではUzutrakis荘園領に適用されていたが、この庭は同時期のヨーロッパでつくられた庭園と比べ、きわだった存在とはいえない。(2)は、「トラカイでは、土地の所有・開墾から、農村景観形成までの各段階を示す集落が残る」とのことだが、基準(2)で定義する「人間的価値の重要な交差点」であることの証明にはならない。(3)は、「トラカイの史跡や建築物は、人々の宗教や芸術とも密接に関係し、重要な文化的景観の一例である」とのことだが、公園と、それら大衆的・宗教的・政治的利用との関係に、世界遺産たりうる唯一性を見いだすことは難しい。


 


 ▲町並み

写真提供=漣さん
   

解説/文=収斂さん

湖に浮かぶ島のように見える丘陵地帯

  トラカイ(Trakai)はかつてリトアニアの首都だったこともある歴史都市で、現在は郡の行政庁府も置かれている。人口は約3万8000人で、首都ヴィリニュスから29キロしか離れていないにもかかわらず、街の近くに大小200近くの湖が点在し、郡の面積11.5平方キロに対して、湖沼は5.5平方キロも占めている。あまりに多くの湖沼が街の周囲に点在するため、丘や丘陵地が、まるで湖沼の中に浮かぶ島のようにさえ見える。
  こうした風景は昔から「城の丘」(castle hill)と呼ばれてきた。トラカイの街(正確には旧トラカイ[Old Trakai])もそうした丘の最上部に建設されているが、ほかにも Streva, Brazuole, Daniliskes などの「城の丘」がある。このような地形は地質学的に非常に珍しく、これほどの規模のものは世界でもトラカイ周辺だけである。主な湖の面積はガルヴェ湖(Lake Galve)3.88平方キロ、Vilkoksnis湖が3.37平方キロ、Skaistis湖が2.96平方キロである。
  トラカイ周辺では、氷河地帯へ進出したリトアニア先史時代(数千年前)の開拓者達が建設した 、国内で最も古い集落が見つかっており、氷堆石(moraine:氷河が運んだ堆石)や無数の湖沼群には、石器時代の人々の痕跡がいくつも残っている。また、中世以降の歴史的建築物や史跡などの文化財が300以上も現存している。そのためリトアニア国内唯一の歴史自然公園(トラカイ歴史自然公園:Trakai historical national park)に指定されている。トラカイ歴史国立公園の面積は、トラカイ周辺も含め、45.02平方キロである。


リトアニアで最初の首都

  トラカイ一帯の独特の地形は、外敵からの侵入を防ぎやすいこともあって、少なくとも11世紀初頭には、多くの丘に小さな集落が形成されていた。ただし、どれも木でできた簡素な城郭集落だった。このころの文献資料は乏しいため詳細は不明だが、リトアニアが中央集権化されていく過程において、トラカイがリトアニアの首都のような役目を果たしていたのは間違いないと考えられている。
  リトアニア年代史によると、リトアニア大公ゲディミナス(Gediminas, the Grand Duke of Lithuania, 1316-41)が1321年にトラカイに城を建設し、 都をケルナヴェ(Kernave)からトラカイに移したとされている。なお、このとき建設されたという城は旧トラカイであり、現在のトラカイではない。現在のトラカイの街は、ゲディミナス死後に大公に即位したケストゥティス(Kestutis)が、より強力な城を建設すべく部下に土地を探させ、ガルヴェ湖と Bernardines湖にまたがる理想的な場所に新しく建設した、半島城(Peninsular castle)という城塞が母体となっている。
  半島城はリトアニアで最古のゴシック様式建築であり、当時のリトアニアで最大の城塞でもあった。軍事的にも重要な要塞で、15世紀を通してリトアニア公爵の居城だった。そのため、くり返し補修や装飾がなされている。ゲディミナスによる最初の城を旧トラカイ城(the Old Trakai castle)、ケストゥティスによる城を新トラカイ城(The New Trakai castle)と呼んで区別しているのはこのためである。
  ケストゥティスは半島城の近くのガルヴェ湖の小島にも城塞を建設した。これは島城(Island castle)と呼ばれ、大公の居城になったこともある。ただし、リトアニア中世の文献資料は少なく、新旧2つのトラカイ城の関係については未解明な点も多い。14世紀末にはともに拡充され、装備も質も違いがほとんどなくなっていたという記述もある。また、ほかいくつかの文献資料によると、1323年にはヴィリニュスがリトアニア大公国(the Grand Duchy of Lithuania)の首都になっていたという記述もあり、遷都の経緯や詳細は不明である。ただしトラカイの街の重要性に疑う余地はない。なぜなら当時のリトアニアは、チュートン人(the Teutonic:ゲルマン民族の一派)からの攻撃にさらされていたため、高度の防衛装備を誇るトラカイは戦略上、極めて重要だったのだ。またリトアニア大公の居城が、ヴィリニュスではなくトラカイにあったとされるのもおそらく事実である。


衛兵になったクリミア半島の少数民族

  ゲディミナスはリトアニアの基礎を築いた英雄とされているが、彼はいくつかの重要な法令を発布している。そのひとつが大公権力の世襲制だった。ゲディミナスの死後、アルギルダス(Algirdas)とケストゥティスという二人の息子が実権を握った。しかし二人はあまり仲がよくなく、荘園どうしで争うこともあった。アルギルダスの死後、大公の権力を握ったケストゥティスは、1379年に、彼の息子のヴィトータス(Vytautas)、Lengvenis、それに、アルギルダスの息子のヨガイラ(Jogaila)らをトラカイに招いて会議を開き、ドイツ騎士団からもらった爵位の問題や、荘園どうしの商業と狩猟に関する協定、および係争地における住民問題などについて合意文書に署名し、対立する問題を解決した。14世紀から15世紀のゲディミナス一族の支配体制は、のちの封建制の基礎を築いたばかりでなく、リトアニアの基礎も築いたとされている。
  14世紀後半に大公の座に就いたヴィトータス(the Grand Duke Vytautas)治世の時代は、リトアニアが最も強盛を誇った時代だった。彼は、現在のロシア領深くまで遠征し、黒海沿岸にまで領土を拡大することに成功したが、遠征中の1389年に、クリミア半島に住んでいたカライテ人(Karaites)という少数民族を約400家族ほどリトアニアに連行し、自分の居城の衛兵にした。現在でもカライテ人の子孫たちが数十家族もトラカイで暮らしており、当時のままの言語と慣習をいまに伝えている。今日、リトアニア政府はカライテ人の文化の継承に最大限の努力を払っている。なお、989年にはカライテ人がトラカイに来て600年の節目に当たり、600周年祭(the 600th anniversary)が盛大に行われた。






▲島城

写真提供=漣さん


増築を繰り返した城塞

  トラカイは、ヴィトータス治世下の14世紀後半から15世紀初頭にかけて最も繁栄した。15世紀初頭には、マグデブルグ憲章(the Magdeburg Charter)という自治都市の称号も与えられ、リトアニアの行政の中心地となった。ヨーロッパからの外交官や使節も多く来訪し、進んだ西欧の技術や文化が多く流入し、多くの学校も設立された。またヴィトータス自身も、生誕地であるトラカイが好きだったらしく、トラカイの城塞の増築には積極的だった。
  ヴィトータスが行った増築を、トラカイの第二城塞(the second castle of Trakai)ともいう。この増築工事で、トラカイの城塞は面積は約4ヘクタール、前部(frontal part)、上部(upper part)、下部(lower part)の三つの部分で構成された強固なものになった。その後、ガルヴェ湖の小さな三つの島が埋め立てによって一つに統合され、トラカイの第三城塞(the third castle of Trakai)が建設された。面積は2ヘクタールで、公爵宮殿(the ducal palace)と高い城壁が整備された。公爵宮殿は、幅のちがう二つの平行なウィングを有する2階建ての宮殿で、半地下も備えていた。この宮殿は外国の要人を接待するのにも使われ、現在はフレスコ画やステンドグラス窓(stained-glass windows)で装飾されている。


行政府がヴィリニュスに移転後、急速に衰退

  しかし16世紀になると、社会や政治体制の変化によって、トラカイの戦略的重要性も薄れていった。理由はいろいろあるが、最大の要因は1569年に締結されたルブリン連合(the Lublin Union)である。これはリトアニアとポーランドを、ジェチポスポリタ州(Rzeczpospolita)として合併させるというもので、首都はクラクフ(Cracow)に置かれた。この合併でもリトアニアの領土、外交、軍事、行政、法律の自主性を保つことは認められてはいたが、政治の中心はヴィリニュスに移り、トラカイの街の重要性は大幅に低下した。また商業ルートも変わり、経済的にも疲弊していった。やがてトラカイは緊急時の避難都市のような役目の街になっていった。島城も、政治犯や貴族階級の犯罪者の牢獄に使用されるようになった。
  また、このころからリトアニアでも封建制度が浸透し、近隣諸国との戦争に巻き込まれることが多くなった。さらに聖職者たちがポーランド語の普及に務めたため、地方の封建領主のなかにはポーランド語を基本言語として採用する者まで現れ、リトアニア語が軽視される事態まで起こった。ちなみにリトアニア語で書かれた最初の本は、1547年に東プロイセン(East Prussia)で印刷されたものである。
  中世のトラカイの人口構成は多民族的で、リトアニア人、ロシア人、ドイツ人、それに多くのユダヤ人もいた。彼らは主に民族や宗派ごとにコミュニティを形成し、分かれて生活していた。そのためリトアニア人地区にはローマカトリック教会(Roman Catholic Church)、ロシア人地区にはロシア正教教会(Russian orthodox church)、ユダヤ人地区にはシナゴーグ(Jewish synagoge)などが建てられた。


詩人マイロニスが謳いあげ、脚光を浴びる

  16〜17世紀は、リトアニアにとって最も苦しい時代だったとされる。1655年から5年間続いたロシアとの戦争で、トラカイの街の大半が破壊され、貴重な文化財が略奪された。それ以後トラカイが政治の中心地になることは、もうなかった。やがてリトアニアは、ロシア皇帝ツァー(Tsars:ロシア皇帝の称号)の支配下に組み込まれていった。
  19世紀までのトラカイは廃墟同然だったが、20世紀初頭にナショナリズム運動が起こり、リトアニアの近代詩人の巨匠マイロニス(Maironis)の詩によってトラカイが紹介されたことで一躍脚光を浴びた。1929年から街の文化遺産の修復工事が行われることになり、最初に島城が修復された。62年にはトラカイ歴史博物館(the Trakai History Museum)も開館した。現在までにトラカイの城の多くが詩に詠まれている。
  またトラカイの湖や城には伝説や逸話が多く残っている。中でも Skaistis湖の「Lucidの伝説」は有名である。伝説によれば、湖の水が透明なのは、チュートン人との戦いで戦死した兵士に恋をしていた若い召使いの少女が、還らぬ恋人を待ちわびて流した涙で満たされているからだという。Skaistis湖は別名 Lucid(澄んだ、透明な、という意味)とも呼ばれる。
  現在のトラカイは氷河地形が見せる独特の景観と、リトアニアの歴史と、カライテ人の文化が融合した素晴らしい街であるとして、毎年35万人の観光客が訪れる。また湖でのウィンドサーフィンなども盛んである。夏になると島城では恒例の音楽祭も開催される。



参考サイト
http://www.tourism.lt/region/vilnius/trakai.htm
http://neris.mii.lt/towns/trakai/trakai.html






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