|
▲町並み 写真提供=漣さん |
解説/文=収斂さん 湖に浮かぶ島のように見える丘陵地帯
トラカイ(Trakai)はかつてリトアニアの首都だったこともある歴史都市で、現在は郡の行政庁府も置かれている。人口は約3万8000人で、首都ヴィリニュスから29キロしか離れていないにもかかわらず、街の近くに大小200近くの湖が点在し、郡の面積11.5平方キロに対して、湖沼は5.5平方キロも占めている。あまりに多くの湖沼が街の周囲に点在するため、丘や丘陵地が、まるで湖沼の中に浮かぶ島のようにさえ見える。
トラカイ一帯の独特の地形は、外敵からの侵入を防ぎやすいこともあって、少なくとも11世紀初頭には、多くの丘に小さな集落が形成されていた。ただし、どれも木でできた簡素な城郭集落だった。このころの文献資料は乏しいため詳細は不明だが、リトアニアが中央集権化されていく過程において、トラカイがリトアニアの首都のような役目を果たしていたのは間違いないと考えられている。 |
ゲディミナスはリトアニアの基礎を築いた英雄とされているが、彼はいくつかの重要な法令を発布している。そのひとつが大公権力の世襲制だった。ゲディミナスの死後、アルギルダス(Algirdas)とケストゥティスという二人の息子が実権を握った。しかし二人はあまり仲がよくなく、荘園どうしで争うこともあった。アルギルダスの死後、大公の権力を握ったケストゥティスは、1379年に、彼の息子のヴィトータス(Vytautas)、Lengvenis、それに、アルギルダスの息子のヨガイラ(Jogaila)らをトラカイに招いて会議を開き、ドイツ騎士団からもらった爵位の問題や、荘園どうしの商業と狩猟に関する協定、および係争地における住民問題などについて合意文書に署名し、対立する問題を解決した。14世紀から15世紀のゲディミナス一族の支配体制は、のちの封建制の基礎を築いたばかりでなく、リトアニアの基礎も築いたとされている。 |
|
トラカイは、ヴィトータス治世下の14世紀後半から15世紀初頭にかけて最も繁栄した。15世紀初頭には、マグデブルグ憲章(the
Magdeburg
Charter)という自治都市の称号も与えられ、リトアニアの行政の中心地となった。ヨーロッパからの外交官や使節も多く来訪し、進んだ西欧の技術や文化が多く流入し、多くの学校も設立された。またヴィトータス自身も、生誕地であるトラカイが好きだったらしく、トラカイの城塞の増築には積極的だった。
しかし16世紀になると、社会や政治体制の変化によって、トラカイの戦略的重要性も薄れていった。理由はいろいろあるが、最大の要因は1569年に締結されたルブリン連合(the
Lublin
Union)である。これはリトアニアとポーランドを、ジェチポスポリタ州(Rzeczpospolita)として合併させるというもので、首都はクラクフ(Cracow)に置かれた。この合併でもリトアニアの領土、外交、軍事、行政、法律の自主性を保つことは認められてはいたが、政治の中心はヴィリニュスに移り、トラカイの街の重要性は大幅に低下した。また商業ルートも変わり、経済的にも疲弊していった。やがてトラカイは緊急時の避難都市のような役目の街になっていった。島城も、政治犯や貴族階級の犯罪者の牢獄に使用されるようになった。
16〜17世紀は、リトアニアにとって最も苦しい時代だったとされる。1655年から5年間続いたロシアとの戦争で、トラカイの街の大半が破壊され、貴重な文化財が略奪された。それ以後トラカイが政治の中心地になることは、もうなかった。やがてリトアニアは、ロシア皇帝ツァー(Tsars:ロシア皇帝の称号)の支配下に組み込まれていった。 |