解説/文=好古学のすすめさん
1.概要
(1−1)遺産の概要
中世以降、ピレネーの南北にまたがるこの一帯を北東部に含むカタルーニャ地方には、独自の言語・文化が発達した。各時代の豊富な文化遺産がこの地域を彩っており、先史時代やギリシア・ローマ時代の遺跡、中世の修道院や教会、城、その周りの町並みが残り、ぶどうやオリーブの畑が広がる。とくに急傾斜地に開かれたぶどう畑は、特徴的な美しい景観をつくりだしており、地中海を見下ろすバニュルスとコリウールのものが有名である。また、20世紀美術のフォーヴィスム、キュビスム、シュルレアリスムを生み育てた土地でもある。
暫定リストでは複合遺産とされていたが、推薦は文化遺産(文化的景観)として行われた。
(1−2)推薦範囲
推薦地域の西北部はピレネー山脈の東端のアルベラ山地(注1)、東北部は急傾斜の地中海岸、東南部はロダス山地とクレウス岬半島、南部はアンプルダ平野のロザス湾に面した海岸地帯である。これらに囲まれた中央部のアンプルダ平野の大部分は含まれておらず、山麓と海浜に接した一部のみがバッファー・ゾーンになっている。
行政区画では、フランス側はラングドック・ルシヨン(Languedoc-Roussillon)州ピレネー・ゾリアンタル(Pyrenees-Orientales)県のセレ(Ceret)郡の東南部、スペイン側はカタルーニャ(Catalunya)自治州ジロナ(Girona)県のアル・アンプルダ(Alt
Emporda)郡の北部および東部にあたる。コア・ゾーンはスペイン側25自治体、フランス側16自治体にまたがり、バッファー・ゾーンを加えた範囲はスペイン側31自治体、フランス側19自治体である。
面積はICOMOSとIUCNの評価書では63,839ha(うち陸地60,010ha、海洋3,629ha)(注2)、バッファー・ゾーン93,171ha(うち陸地55,080ha、海洋38,091ha)、合計157,010haである。
(注1)この山地は、カタルーニャ語でアルベラ山地(Serra de l'AlberaまたはMassis
de l'Albera)、フランス語でアルベル山地(Massif de l'Albere, Massif des AlberesまたはMonts
Alberes)と呼ばれる。また、フランスではさらに広い範囲をアルベル山脈(Chaine des Alberes)と呼んでいる。
(注2)WHC.07/31.COM/8Bによるとコア・ゾーンは64049ha。
2.歴史
新石器時代にはこの地域の広い範囲にドルメンやメンヒルが建てられた。先住のイベロ族は来航するエトルリア人やフェニキア人、ギリシア人と交易を行っていたが、前6世紀にエンポリオン(Emporion)などのギリシア植民市が建設された。第2次ポエニ戦争(前219-前201)後にはローマの属州の一部となった。
ローマ帝国末期に西ゴート王国の一部となったが、8世紀にイスラムの支配下に入った。8世紀末から9世紀はじめにかけて、フランク王国のヒスパニア辺境区(Marca
Hispanica)が設けられ、この地域にはピレネー北側にルサリョ/ルシヨン(Rossello / Roussillon)伯、南側にアンプリアス(EmpuriesまたはAmpurias)伯が置かれた。ルサリョ伯領はおおむね現在のピレネー・ゾリアンタル県の東部、アンプリアス伯領はおおむね現在のアル・アンプルダ、バシュ・アンプルダ(Baix
Emporda)両郡にあたり、辺境区北東部のルサリョ=アンプリアス地方を形成した。なお、辺境区南部はジロナ=バルセロナ地方である。
フランク時代以降、修道院が再建・創建され、イスラムの侵攻を阻止する砦の役目を果たし、修道院や教会、城のまわりには町がつくられた。伯は当初はフランク王の任命だったが、9世紀末には世襲となり、10世紀末にはフランク王国から事実上独立した。しばしば襲撃してくるイスラムの本拠を攻撃するため、891年にイベリア半島南部のアルメリアに遠征したアンプリアス伯のスニェル2世(Sunyer
II、在位862-915)は、896年にルサリョ伯を兼ねた。その子ガウスベルト1世(Gausbert I、在位915-931)はサン・マルティ修道院を再建(927年)し、さらにその子ガウスフレ1世(Gausfred
I、在位931-991)はサン・ペラ・ダ・ロダス修道院に多大な寄進をした。991年に両伯位は兄弟間で分離され、それぞれ世襲された。
11世紀以降、次第に独自の言語、文化と民族のアイデンティティーをもつカタルーニャがバルセロナを中心に形成される。1137年にバルセロナ伯はアラゴン王女と結婚、カタルーニャ・アラゴン連合王国が成立し、13〜14世紀には地中海の制海権を握るまでに発展した。ルサリョ伯家は1172年に絶え、伯位はバルセロナ家に渡った。1276年に連合王国からマリョルカ王国が分離し、ルサリョ伯はマリョルカ王が兼ねたが、1344年に再統一された。アンプリアス伯は連合王国に従い、レコンキスタにも加わっていたが、王国との間には紛争もあり、1325年にアンプリアス伯領はバレンシア王国内の領地と交換されてバルセロナ家のものとなった。
1479年にカスティーリャ王国とアラゴン王国が連合王国となり、カタルーニャはスペイン王国の一地方となった。1640年に起こったカタルーニャのスペインに対する反乱にフランスが介入し、1659年のピレネー条約でルシヨン地方はフランス領となった。その後もアウグスブルク同盟戦争(1684-1700)、スペイン継承戦争(1705-14)、フランス革命戦争(1793-95)、ナポレオン戦争(1807-14)などでもこの地域は戦場になった。
18世紀に新しい道路が開通し、19世紀後半にはフランス・スペイン間を結ぶ鉄道が海岸地帯を走り、観光客が訪れるようになった。20世紀後半からは大規模な観光開発が行われている。フランス側の海岸はコート・ヴェルメイユ(Cote
Vermeille=朱色の海岸)と呼ばれ、スペイン側の海岸はコスタ・ブラバ(Costa Brava=荒い海岸)の北部にあたる。どちらも夏のリゾート地としてにぎわっている。
3.各地域の遺産
(3−1)アルベラ山地
3−1−1.景観
アルベラ山地は、スペインとフランスの国境をなすピレネー山脈が、地中海と出会う東端部約25kmの低い山地である。最も高い峰が標高1,257mで、東に行くほど次第に低くなる。植生はナラ、ブナなどが中心で、地中海地域でよくみられるように、伝統的にぶどう、オリーブ、コルクガシなどの栽培や小規模なクリの栽培が行われてきた。
フランス側斜面の東部には、マッサヌ(Massane)自然保護区が、スペイン側斜面の中央部および東部に2か所には、アルベラ自然地域(Paratge
Natural de l'Albera)1 が設定されている。
1 アルベラ自然地域(カタルーニャ州環境・住宅省、英語)
http://mediambient.gencat.net/eng/el_medi/parcs_de_catalunya/albera/
3−1−2.山麓の村と修道院
アルベル山地のフランス側の北斜面は急峻である。山麓のモンテスキュー・デ・ザルベル(Montesquieu-des-Alberes)2 とラロク・デ・ザルベル(Laroque des Alberes)3 は、9世紀の城の周りにできた集落で、よく保存されている。この地方にはロマネスク美術に見るべきものがあり、サン・タンドレ・ドゥ・ソレド(Saint-Andre-de-Sorede)修道院とサン・ジェニ・デ・フォンテーヌ(Saint
Genis des Fontaines)修道院4 はリンテル(まぐさ石)の彫刻で著名だが、後者は制作年代が1020年とわかる重要なものである。また、サン・マルタン・ドゥ・フノヤール(Saint-Martin-de-Fenollar)聖堂の12世紀のフレスコ画5 は保存状態がよく貴重である。
スペイン側の南斜面はなだらかで、先史時代のドルメンやメンヒルが各所に分布する。9世紀に創建された修道院は多くが廃墟になっているが、サン・キルザ・ダ・クレラ(Sant
Quirze de Colera)6 など、現存する建物は12世紀ごろに再建されたものが多い。
封建領主の城は10世紀ごろから戦略の要地につくられるようになった。初期には丘の上や麓にあったが、後にはカンタリョプス(Cantallops)やカプマニ(Capmany)にように平野に城がつくられ、そのまわりに集落ができた。
2 モンテスキュー・デ・ザルベル(jeantosti.com、フランス語)
http://jeantosti.com/villages/montesquieu.htm 画像4点(教会3、城跡1)
3 ラロク・デ・ザルベル(フランス語)
http://www.laroque-des-alberes.fr/
http://pagesperso-orange.fr/mairie.laroque.des.alberes/laroqpg/laroqca.html
4 サン・ジェニ・デ・フォンテーヌ修道院(jeantosti.com、フランス語)
http://jeantosti.com/visiter/stgenis.htm
5 サン・マルタン・ドゥ・フノヤール聖堂のフレスコ画(NOTES ROMANES、フランス語)
http://notes.romanes.free.fr/images/catalan66/fenollar/texte.htm
6 サン・キルザ・ダ・クレラ修道院(CapCreus OnLine、英語)
http://www.cbrava.com/quirze/stquirze_uk.htm
(Monasterios de Catalunya、カタルーニャ語)
http://www.monestirs.cat/monst/aemp/cae43cole.htm
3−1−3.キュビスムの発展
キュビスムを創始したピカソ(Pablo Picasso, 1881-1973)とブラック(Georges Braque, 1882-1963)は、1911年から1913年にかけてセレ(Ceret)町に滞在した。キュビスムは、パリとセレにおける彼らの共同制作を通じて発展した。セレの町はピカソ、ブラックのほかマティスなど多くの芸術家が訪れ、近代美術館7 にはこの地に滞在した画家の作品が展示されている。
7 セレ近代美術館(フランス語)
http://www.musee-ceret.com/
3−1−4.ヘラクレスの道からTVGへ
アルベラ山地は南北を結ぶ交通の要衝であり、いくつかの峠があるが、最も重要なのは山地西端のペルトゥス峠である。
ローマ時代にアルプスからピレネーまでガリア南部を通っていたドミティア街道(Via Domitia)と、ピレネーからバルセロナを経てカディスまでを結んでいたアウグスタ街道(Via
Augusta)の遺跡が各所に残る。アウグスタ街道はヘラクレア街道(Via Herculea)とも呼ばれ、ギリシア神話のヘラクレスはこの道を通ったとされる。紀元前218年には、カルタゴのハンニバルが大軍をひきいてこの道をローマに向かった。
ピレネー越えの地点はローマ時代にはスムス・ピレネウス(Summus Pyrenaeus)と呼ばれており、パニサース(Panissars)峠(325m)に遺跡がある。1983年に発見された基壇は、紀元前71年にポンペイウスが建てた戦勝記念碑のものである。峠の北側にはクルーズ・オート(Cluse-Haute)の3世紀の砦跡、ムーア人の城(Castell
dels Moros / Chateau des Maures)と呼ばれている4世紀の砦跡や、クルザスの門(porte des Cluses)と呼ばれている税関(Portorium)跡が残る8。
13世紀には、峠越えの道はパニサース峠から北東に約1kmのパルトゥス/ペルトゥス(Pertus / Perthus)峠(290m)を通るようになり、二つの峠を扼する地点にベルガルド(Bellegarde)砦が築かれた。1678〜88年にはヴォーバンが砦を拡張してベルガルド城塞9 を築いた。
道路交通は現代でもペルトゥス峠が中心であり、おおむねフランス側の県道はドミティア街道に、スペイン側の国道はアウグスタ街道にあたり、高速道の欧州道路15号が並行して走る。鉄道はなかったが、高速鉄道(TVG)の新路線(ペルピニャン・フィゲラス線)が全長8,171mのトンネルで抜けるルートで建設中であり、2009年に開通予定である。
8 パニサース峠とポンペイウスの戦勝記念碑、クルーズの城砦(The
Roman Roads in the Mediterranean、英語)
http://www.viaeromanae.org/france/index.php3?langue=en&id_gmenu=788&code_menu=traversviado1&niv1=A
9 ベルガルド城塞(Association Vauban、フランス語)
http://www.vauban.asso.fr/fortifications/bellegarde.htm
(3−2)コリウールとバニュルス
3−2−1.景観
山地の東端はフランス側のベアール岬(Cap Bear)と国境近くのセルベール岬(Cap Cerbere)の間で海岸となり、急傾斜の岩石海岸の岬と小さな磯浜や砂浜の入り江が交互にスペイン側まで続く。わずかな平地に歴史の古い港町があり、斜面にはぶどう畑が広がる。19世紀後半に鉄道が海岸沿いに敷設されてフランス=スペイン間を結んだ。
セルベール=バニュルス海洋自然保護区10 が設定されている。
10 セルベール=バニュルス海洋自然保護区(ピレネー・ゾリアンタル県のHP、フランス語)
http://www.cg66.fr/environnement/espaces_naturels/reserve_marine/index.html Telechargez
la plaquette (.pdf)からパンフレットをダウンロードできる。
3−2−2.コリウールとフォーヴィスムの誕生
コリウールには、13世紀にテンプル騎士団が建てたシャトー・ロワイヤル(Chateau Royal)や14世紀に要塞化されたノートルダム・デ・ザンジュ教会の鐘楼(古い灯台を転用したもの)など、歴史的建造物が多く残されている。サン・テルム(Saint-Elme)要塞や、コリウールのシャトー・ロワイヤルの外郭、ポル・ヴァンドルのファナル要塞(Fort
du Fanal、1684年)な、どヴォーバンの作品(注)もある。
1905年にコリウールに滞在したマティス(Henri Matisse, 1869-1954)とドラン(Andre Derain,
1880-1954)は、鮮烈な日差しを表現した作品を制作した。ここでフォーヴィスム(野獣派)が誕生したのである。マティスは1914年まで4回コリウールに滞在している。ピカソ、ブラマンクなど多くの画家もこの地を訪れている。
(注)ヴォーバンの主要な作品は2008年に世界遺産に登録された。スペイン国境方面では「ヴィル・フランシュ・ド・コンフラン」と「モン・ルイ」が含まれたが、この地域のものは含まれていない。
(3−3)クレウス岬半島
3−3−1.景観
アルベラ山地の南東からロダス山地(Serra de Rodes)が始まり、東にクレウス岬(Cap de Creus)半島に続く。クレウス岬はイベリア半島の最東端である。サン・ペラ・ダ・ロダス修道院からは地中海が一望できる。半島の東海岸には港町カダケス(Cadaques)がある。クレウス岬半島とロダス山地は、クレウス岬自然公園11 に指定されている。自然公園には海洋部もあり、推薦遺産のコアになっている。
半島は、アルベラ山地南麓とともに巨石遺跡の多い地域である。ラ・クレウ・ダン・クバルテッラ(La Creu d'en Cobertella)12 のドルメンは保存状態のよい回廊付きの墓で、カタルーニャ地方で最大のものと考えられる。
11 クレウス岬自然公園(カタルーニャ州環境・住宅省、英語)
http://mediambient.gencat.net/eng/el_medi/parcs_de_catalunya/cap_de_creus/ The
Parkをポイントしてintroductionをクリック、次のページでInformative leaflet on the Parkをクリックすると英文パンフレットをダウンロードできる。
12ラ・クレウ・ダン・クバルテラのドルメン(英語)
http://web.telia.com/~u31118336/stone_struck/cobertella.htm
3−3−2.サン・ペラ・ダ・ロダス修道院13(注1)など
最も重要な歴史的建造物は、ロダス山地(バルデラ(Verdera)山地とも)のサント・サルバドール山の山頂近く(520m)に建つサン・ペラ・ダ・ロダス(Sant
Pere de Rodes)修道院で、カタルーニャ地方のロマネスク建築(注2)の典型である。文献上の初出は9世紀末で、11-12世紀にはこの地域で大きな力を持った。現在の建物は12世紀から17世紀の間に再建・増改築されたものである。近年、修復が行われ、現在は歴史博物館によって公開されている。山頂(670m)には、城跡(Castell
de Sant Salvador de Verdera)がある。
ロダス山地西部にはカルマンソ(Quermanco)の城跡14 がある。
ロダス山地=クレウス岬地域では、ラ・セルバ・ダ・マール(La Selva de Mar)とラ・バル・ダ・サンタ・クレウ(La Vall
de Santa Creu)の家並みが特によく保存されており、ピレネーの山村の雰囲気を保っている。
13 サン・ペラ・ダ・ロダス修道院(カタルーニャ歴史博物館)
http://www.mhcat.net/oferta_museal/monuments/comarques_de_girona/monestir_de_sant_pere_de_rodes Vegeu-ne
el videoをクリックすると動画を見ることができる。Dipticをクリックするとリーフレット、Brochure in Englishをクリックすると英文パンフレットをダウンロードできる。
(注1)サン・ペラ・ダ・ロダス修道院は世界遺産候補として単独で推薦されたが、1989年の世界遺産委員会で登録不可と判断された。
(注2)カタルーニャ・ロマネスク建築の代表は「ボイ渓谷のカタルーニャ・ロマネスク様式教会群」であり、2000年に世界遺産に登録されている。
14 カルマンソ城(英語、日本語)
http://www.castelldequermanco.es/
3−3−3.カダケスとダリの風景
シュルレアリストの代表的な画家サルバドール・ダリ(Salvador Dali, 1904-89)は、フィゲラスで生まれ、カダケス村のポルト・リガト(Port-Lligat)に卵の家と呼ばれる住宅とアトリエを構えた。現在は、美術館になっている15。ダリの作品のいくつかにはクレウス岬半島の風景16 が現れる。
15 サルバドール・ダリの家美術館(ガラ=サルバドール・ダリ財団、英語)
http://www.salvador-dali.org/museus/portlligat/en_index.html
16 サルバドール・ダリの世界(abe氏のHP、日本語)
http://www3.ocn.ne.jp/~salvador/visit2.html
(3−4)アンプリアスとロザス
3−4−1.景観
アルベラ山地南麓はアンプルダ平野に続くが、コア・ゾーンに含まれるのは、クレウス岬半島の南のロザス湾(Golf de Roses)に面した部分のみである。ムガ川とフルビア川の河口近くには湿地帯が広がり、海岸は砂丘のある砂浜となっている。
湾岸に広がるアンプルダ湿原は自然公園17 に指定され、ラムサール登録地にもなっている。かつてはロザス湾岸のほとんどが湿地だったが、農地の開発によって減少し、観光開発や宅地開発によって消滅の危機に瀕した。1967年から、巨大なマリーナ付き別荘団地のアンプリアブラバ(Empuriabrava)が開発された。1976年から保護運動が起こり、1983年にアンプリアブラバなどを除外して湿地の一帯が自然公園に指定された。
17 アンプルダ湿地自然公園(カタルーニャ州環境・住宅省、英語)
http://mediambient.gencat.net/eng/el_medi/parcs_de_catalunya/aiguamolls/ The
Parkをポイントしてintroductionをクリック、次のページでInformative leaflet on the Parkをクリックすると英文パンフレットをダウンロードできる。
3−4−2.アンプリアス遺跡(注)とサン・マルティ・ダンプリアス
最も重要な遺跡はロザス湾南部、フルビア川河口のアンプリアス(Empuries)18 で、小アジアのフォカイアのギリシア人によって紀元前550年ごろに植民市エンポリオン(Emporion)として建設され、イベリア半島で最も重要な港となった。エンポリオンとはギリシア語で市場の意味で、この語が後のアンプリアス伯領や現在の郡名の起源である。
ローマによるヒスパニア征服は、第2次ポエニ戦争の際のローマ軍のアンプリアス上陸(前218年)に始まる。ローマ時代にアンプリアスは拡大されたが、次第にタラゴナとバルセロナに繁栄を譲った。3世紀に集落は隣接地の教会を中心としたサン・マルティ・ダンプリアス(Sant
Marti d’Empuries)に移った。アンプリアス伯は9世紀から11世紀までここに居城を置き、近くにサン・マルティ・ダンプリアス修道院を建立した。アンプリアス遺跡の発掘は1908年に始まり、現在では約4分の1が発掘されている。現在のサン・マルティ・ダンプリアスは、16世紀に建てられた教会19 と当時の町並みが残る別荘地になっている。
アンプリアス伯は、1079年にロザス湾北部の内陸のカステリョ・ダンプリアス(Castello d’Empuries)に居城を移した。サンタ・マリア教会20 は13〜15世紀に主要部分が建てられた、ゴシック様式の壮麗なものである。
(注)アンプリアス遺跡は単独で暫定リスト(http://whc.unesco.org/en/tentativelists/1051/)に記載されている。全文(仮訳)は次のとおり。
遺産名/アンプリアスのギリシア遺跡、ジロナ県レスカラ町
アンプリアスのギリシア・ローマ時代の都市遺跡は、イベリア半島北東部(コスタ・ブラバ)のジロナ(ヘロナ)県アル・アンプルダ郡レスカラ町に所在する。アンプリアスはギリシア都市(エンポリオン)とローマ都市(エンポリアエ)の遺跡が複合している、イベリア半島で唯一の遺跡である。
ギリシア都市エンポリオンの建設は、紀元前6世紀前半にさかのぼる。現在は陸地になっているサン・マルティ・ダンプリアスの町にあるその場所は、当時はフルビア川の河口近くの小島、あるいは地峡部だった。エンポリオンを建設したのはファカイア(現トルコ領)から来たギリシア人、もしくはマッシリア(現在のマルセイユ)を建設したフォカイア人である。エンポリオン(ギリシア語で「市場」の意味)の誕生は商業の始まりだった。ギリシア人は後に陸地に住んだ。この新しい植民市はエンポリオンの住民にとって最初の自然港だった旧港の反対側、「旧市」の南の数キロまで延びた。エンポリオンのこの第2の建設(新市)は最初の建設からさほど経っていなかったことは確実である。両方とも、紀元前6世紀の同じ歴史的現実である。ギリシア都市エンポリオンはともあれ、このように二重都市であり、港で区切られた旧市と新市の建設からなっている。後者は、旧市とは反対に歴史が進むにつれ、古典時代の間に完全に放棄され、後に居住されることもなかったために、1908年から1936年の間に行われた発掘の時に完全に回収することが可能となった。
エンポリオンの先住民に果たした役割としてイベリア文化の誕生がある。第2次ポエニ戦争にエンポリオンは巻き込まれ、イベリア半島は歴史の新しい段階に入った。エンポリオンの港は紀元前218年にグナエウス・コルネリウス・スキピオ率いるローマ軍の上陸を見た。彼の任務はイタリアに入ったハンニバルに対するカルタゴ軍による補給を断つことだった。第2次ポエニ戦争が終わり、紀元前197年に新しくイスパニアがローマの属州になった後、先住民の大反乱があり、インディケテ族は最初の秩序の役割を果たした。ローマはギリシアの港を再度上陸地に選び、紀元前195年にマルクス・ポルキウス・カトー率いる軍団が反乱を抑えることとなった。ローマは港とギリシア都市とこれらに接する地域を押さえることができるよう、恒久的な軍事基地をアンプリアスの最も高い地点に築くことを決定した。この軍事基地が、紀元前1世紀のはじめに全体が建設された約22.5ヘクタールの都市の起源である。
アウグストゥスの時代にアンプリアスの様々な住民グループの統合が行われ、ひとつの市、ひとつの政治的・法的実態が形成された。エンポリアエ市である。(旧市、新市、ローマ市の)約30ヘクタールからなる、この新しい市が、それ以来歴史を共有することになる。
管理組織においては、遺跡はカタロニア自治政府立のカタロニア考古博物館に附属している。遺跡を訪れると、ギリシア時代の新市(城壁、聖地、アゴラ・ストア、街路、住居の構造、市場や工房の構造)、ローマ市の遺構(フォールム、公衆浴場、モザイク装飾のある大規模な個人住宅、街路、円形闘技場、体育場)や博物館の展示(アンプリアスで最も代表的な遺物の対応した倉庫での収容)、中でも多画面のオーディオヴィジュアルの放映、城壁の復元などを見ることができる。アンプリアス遺跡は、2000年には23万0238人が訪れた。
18 アンプリウス遺跡(カタルーニャ考古博物館、英語)
http://ftp.mac.es/empuries_eng/ 画像3枚(うち1枚はサン・マルティ・ダンプリアス)
19 サン・マルティ・ダンプリアス教会(英語)
http://www.parroquiaempuries.org/ANG/index.htm
TOWN OF SANT MARTI D’EMPURIESをクリックすると町並みの画像が8枚ある。
20 カステリョ・ダンプリアスの教会(英語)
http://www.basilicadecastello.com/
3−4−3.ロザス
ロザス湾の北端、クレウス岬半島の南の付け根にあるロザス(Roses)は、ギリシア植民市ローデ(Rhode)以来の歴史がある。ロードス島から紀元前8世紀に来たという伝承があるが、実際は前6世紀に現在のマルセイユから来たようである。ギリシア・ローマの遺跡が残るほか、市東部のロム(Rom)山には西ゴート時代の砦跡がある。中世にはサンタ・マリア(Santa
Maria de Roses)修道院が有力だった。旧市街は海賊の襲撃を防ぐため、16世紀以降シウタデッラ(Ciutadella)と呼ばれる星型の城壁に囲まれたが、現在は廃墟になっている。数十年前までは漁村だったが、1950年代から観光開発が急速に進み、市街地はコア・ゾーンから除外されている。
主な参考サイト
○ユネスコ世界遺産センター
・暫定リスト http://whc.unesco.org/en/tentativelists/1655/,
http://whc.unesco.org/en/tentativelists/1986/
・IUCN評価書
・ICOMOS評価書
○カタルーニャ・ハイパー百科事典(英語) http://www.catalanencyclopaedia.com/
○スペイン政府観光局 http://www.spain.info/
○ジロナ県公式観光案内(英語) http://en.costabrava.org/
○クレウス岬オンライン(英語) http://www.cbrava.com/ アル・アンプルダ、バシュ・アンプルダ両郡のオンライン紙
○カタルーニャの修道院(カタルーニャ語、スペイン語) http://www.monestirs.cat/
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