| 895(6?) | マジャール人がウラル山脈からカルパチア山脈を征服 |
| 955 | ドイツ軍と争うが敗走、定住する |
| 992 | 大首長ヴァイクが改宗し、洗礼名をイシュトヴァンとする |
| 1000 | イシュトヴァンがローマ教皇より王冠を送られ、初代王となる |
| 1089 | ラースロー1世がスラヴォニア征服 |
| 1097 | カールマーンがダルマチアを征服 |
| 1106 | ハンガリー王カールマーンがクロアチアとの同君連合をはじめる |
| 1137 | ボスニアとヘルツェゴビナの全スラヴ族を支配 |
| 1222 | ハンガリー貴族が金印勅書を獲得 |
| 1308 | アンジュー家のハンガリー統治 |
| 1342 | ラヨシュ1世が即位し、中世ハンガリーの最盛期を迎える |
| 1370 | ラヨシュ1世がポーランド王となる |
| 1386 | ジギスムントがニコポリスの戦いでトルコに破れる |
| 1444 | ヴァルナの戦いでトルコ軍に破れる |
| 1458 | マーチャーシュ・コルヴィヌスがハンガリー王となる |
| 1516 | ドージャ・ジェルジの乱 |
| 1526 | モハーチの乱により、オスマントルコに攻撃される。 |
| 1541 | 3分割により、北とクロアチアを含む西部はハプスブルグの領内になる。 |
| 1604 | ボチカィ・イシュトヴァンの乱 |
| 1619 | ベトレン・ガーボルの乱 |
| 1643 | ラーコーツィ・ジュラの乱 |
| 1678 | テケィ・イムレの乱 |
| 1683 | クルツ党の反乱 |
| 1686 | ブダがトルコから開放される |
| 1699 | カルロヴィッツ条約が結ばれる。これにより、オーストリアのハンガリー支配が始った。 |
| 1703 | ラーコーツィ・フェレンツェ2世が独立戦争を起こした |
| 1711 | 上記戦争が失敗に終る。サトマール条約が結ばれる。 |
| 1722 | ハプスブルグのカール6世が出した「プラグマティシュ・ザンクツィオン」をハンガリー議会が証認 |
| 1765 | ドナウ以西に農民反乱 |
| 1767 | 賦役勅令 |
| 1781 | ヨーゼフ2世が宗教寛容令を出す |
| 1784 | 公用語としてのドイツ語強制 |
| 1785 | 地方自治停止・永代農奴制廃止 |
| 1790 | 宗教寛容令・農奴制以外を撤回 |
| 1840 | マジャール(ハンガリー)語が公用語であると宣言 |
| 1844 | 言語法により公教育の唯一の言語としてマジャール語を制定 |
| 1848 | ハンガリー独立戦争。4月法令 |
| 1853 | 農奴開放令 |
| 1862 | コシュートが「ドナウ連邦案」を発表 |
| 1867 | オーストリア=ハンガリー二重帝国の成立。ジュラ・アンドラーシが初代首相となる。 |
| 1872 | プロシア・オーストリア・ロシアの3帝同盟 |
| 1879 | ドイツ・オーストリア同盟 |
| 1896 | 建国1000年を記念してブダペストの国会議事堂前に英雄広場が建設される |
| 1918 | 民主主義革命が起こる(ひな菊革命)共和制宣言 |
| 1919 | サン=ジェルマン条約により、独立を承認される。タナーチ革命によりハンガリー・ソヴェト政権の誕生 |
| 1920 | トリアノン条約により、ハンガリーの領土を削られる |
| 1949 | コメコンに加入。ハンガリー人民共和国の成立 |
| 1956 | フルシチョフのスターリン批判により、ハンガリー動乱が起こる |
| 1968 | ハンガリーが経済改革をはじめる |
| 1989 | 東ドイツ難民を西側に逃亡させる役割をする。それにより、ベルリンの壁崩壊に繋がる。
ハンガリー共和国宣言 |
アンジュー家
カーロイ・ロベルトにより統治が始る。1308年〜1386年。
マーチャーシュ・コルヴィヌス
ハンガリーのルネサンスの黄金期で、彼は芸術を育成した。蔵書「コルヴィナ」文庫はヨーロッパ中に
その名を知られていた。
ドージャ・ジェルジ
セーケイ・ジェルジ。対トルコ十字軍の司令官。この十字軍編成に応じた武装農民が大貴族と
衝突を起こし、農民の指導者メーサーロシュ・レーリンツは大貴族に対して領主特権と農民の
身分向上を要求。ドージャは農民に味方して反乱を起こしたが、失敗し、処刑される。
モハーチの乱
スレイマン大帝のオスマン帝国軍がモハーチでハンガリー軍を破る。この戦いでラヨシュ2世が戦死。
この後ハンガリーはハンガリー領・トランシルヴァニア公国・オスマン帝国領に分割される。
ボチカイ・イシュトヴァン
1604年トランシルヴァニアで反乱を起こす。1606年、ウィーンでハプスブルグにハンガリー人の
信仰の自由・トランシルヴァニアの独立を認めさせた。
クルツ党
反ハプスブルグ派のハンガリー貴族。トルコと共にウィーンを包囲したが、トルコ撤退と共に後退。
カルロヴィッツ条約
トルコとオーストリアとの間に結ばれた条約。16世紀〜18世紀まで断続的に行われた、ハンガリーを
めぐるオーストリアとの一連の戦いに敗れたトルコは、この条約によってハンガリーとクロアチアを手放した。
ラーコーツィ・フェレンツェ2世
ハプスブルグの支配下にハンガリーが入る事を拒否し、農民を率いて
1703〜1711までハプスブルグからの解放運動を起こす。トランシルヴァニア候とハンガリー王に選ばれ
るがサトマールの和にて亡命。
サトマール条約
ラーコーツィ・フェレンツェ2世の乱が失敗に終り、結ばれた。これによりハンガリーの信仰の自由と国政は守られたが、ハプスブルグに従属する事になる。
プラグマティシュ・ザンクツィオン
ハンガリー議会はこれを承認する代わりに、自国の権利・自由・免税などの再確認を求めた。これにより、
ハンガリーの独立性の法的基礎を築いた事になった。
(ハプスブルグ項目にも有り)
農奴開放の背景
ペテゥーフィ・シャンドルが独立戦争中にヴィラゴシュで4万の農民と陣を張ったと言う話を聞いた
官憲・閣下・貴族議員はこの事を深く考慮し、賦役を廃止した。
ドナウ連邦案
他の何かを絆にした大きな中央ヨーロッパの国を作る。
これは、ドナウ川沿いの国々であるハンガ
リー、オーストリア、モラヴィア、セルヴィア、ルーマニアが今迄のようなドイツ人支配を終了させて、
お互いに協力して連邦を作っていくと言うような内容。現在のEU(ヨーロッパ共同体)の基礎ともなって
いる
オーストリア=ハンガリー二重帝国
1867年オーストリアとハンガリーは妥協(アウスグライヒ)を結んだ。これにより、ハンガリーに
内政の自由を与えるが、君主・外交・財政・軍事はオーストリア帝国と共通のままと言う「オース
トリア=ハンガリー二重帝国」が誕生した。この目的は、ゲルマン人でもなくスラヴ人でもない
マジャール人に妥協して味方につける事で、1)ドイツ・ロシアに対抗し、2)帝国内のスラヴ主義者
を牽制しようとする事だった。
ジュラ・アンドラーシ
1848年革命に参加後パリに亡命。恩赦で10年後にハンガリーに帰国。親ドイツ主義者でロシアの
拡張に不審を抱き、オスマン帝国を保持する事を説き、その為に鉄道建設を進めてバルカンへの
経済進出を行うべきだとした。
ひな菊革命
カーロイ・ミハーイの「独立と48年党」「ブルジョア急進党」「社会民主党」の参加する新連合政府が
作られた。何故ひな菊革命と言うかというとマルクス主義思想家でハンガリー思想界の指導者で
あるサボー・エルヴィンが死去した時に、人々は帽子にひな菊をつけ、彼の遺志を継いで革命を
求める意志が1918年の革命の動機ともなった事から。
ハンガリー・ソヴェト政権
クン・ベーラによる共産党政権。カーロイ政権が崩壊すると社会民主党左派と共産党の合同を成立
させ、社会主義政権を確立させた。
ハンガリー事件
共産党政権に対する民衆蜂起。ソヴィエトのフルシチョフがスターリン批判を行った事が原因。
その他の理由として、共産党が政権独裁をして恐怖政治を行っていた事、農業政策の失敗のため、
1949〜1952年に食糧事情が悪化(ジャガイモの不作など)していたこと、1847年に世界恐慌の影響
を受けたこと、ソ連軍がハンガリーからの撤退をすると思い込み、蜂起すれば西側の援助が得られ
ると思った事などが挙げられる。当時の首相はナジ・イムレ。ソ連に拉致され1958年に反逆罪で処
刑されるが1989年名誉回復された。
ハンガリー共和国
1989年10月18日憲法採決、19日から共和国となった。10月23日国会議事堂のコシュート広場で
ハンガリー共和国宣言式典が行われた。