皆さん、こんにちは。
霧隠です。
尼崎城。
現在、遺構が全く存在しないお城。
しかし、往時には四隅に四層の天守閣に三重櫓三棟を置き、周囲を多聞櫓(長櫓)
・塀で囲んである一大城郭で、その規模は、徳川将軍の江戸城・二条城や御三家
の名古屋城に匹敵する施設、内容、規模だったそうです。
詳しくは前述の「尼信会館 2階 城下町尼崎展」
をご覧下さい。
今回、尼信会館にて、実際に尼崎城の模型を見て、その広大な城郭、たくさんの
櫓に唖然としたのですが、そのときの感想は、ただ「すごいなぁ〜」でした。
しかし! 実はなんにもわかってなかったのです。
模型も見たし、展示物も見たし、さぁ、帰ろうと思ったそのとき、入ったとき
にはいない人がいました。
せっかくなので、2階の模型のことを聞いてみることに。
実はこの方、この模型作成の関係者だったのです。
模型作成の苦労やこだわりをその後1時間に渡り、詳細に説明していただけた
のです!
ものごっつうおもしろかったです。
そのお話を通じて、尼崎城の成り立ちから衰退、そして消滅まで教えていただ
きました。
ここにそのときのお話をもとに、自分なりにまとめてみました。
題して「尼崎城物語」です。
1.尼崎城の築城と尼崎藩の繁栄
尼崎城は、大阪城の抑えとして、幕府の命令で築城されました。
当然仮想敵国は、西国の外様大名。
姫路城を先頭に、明石城、尼崎城と続き、大阪城までの防御体制を築きます。
姫路城はご存知のとおり、池田輝政公が西国将軍と呼ばれるほどの広大な城郭
を築きますが、この尼崎城も決して引けをとらない広大で、防御制にすぐれた
お城です。
縄張り的には、螺旋式に堀が構築され、内堀、中堀、外堀と三重の堀がそなわ
り、水をたくみに利用したその姿は、海から見るとまるで水の中に浮いている
ようで、「浮城」とも呼ばれたそうです。
同様のお城は広島県にある三原城も海を利用したお城で、満潮時には文字通り
海に「浮かんで」みえたようです。
また、堀をたくみに利用した縄張りは大垣城にも見られます。
この尼崎城は、尼崎藩として石高はわずか5万石の譜代の藩でしたが、軍事的
な要衝ということで、その維持のために尼崎領だけでなく、今津、西宮から兵
庫津までの灘浜手の村の収益も与えられ、実質「10万石」の収入があったそ
うです。
当然、家格も「10万石」の大名として幕府から認められ、通常5万石の大名
の参勤交代のときには一本の飾り槍しか認められていませんでしたが、尼崎藩
は2本の「飾り槍」の使用が認められています。
ここからも幕府がこの地の重要性を強く認めているのが分かります。
また、尼崎は古代から江戸初期まで優良な港しても有名だったようで、入り組
んだ湾は当時の小さな船には好都合で、京と西国を中継する港湾都市として栄
えました。
さらに、尼崎藩は将軍交代の際に訪れる「朝鮮通信使」の際に、兵庫から大阪
までの接待と送迎を任されていて、自前の水軍も持っていたようです。
20年に一度くらいの朝鮮通信使のためにどのように準備し、行われるか書い
たマニュアルが上下巻合わせて50Mにも及ぶ「信使来聘自兵庫至大坂引船図」
です。
カラフルな色使いの巻物で、船や人数など詳細に描かれていて、当時の様子を
知る事ができる貴重な資料です。
このように尼崎藩は、尼崎城を中心とした一大城下町を築き、軍事的、経済的
にも重要な都市として大いに繁栄いたしました。
また、この尼崎城はおもしろいお城で、お城の中を街道が通っているのです。
もちろん本丸には入れませんが、通常城門には庶民は入れないのですが、この
尼崎城は、城内の一番外側の道を「中国街道」が通っており、旅人や大名行列
などが通ったのだそうです。
のちに、海岸線が埋めたてられ、中州に築地町ができた際には、城内を迂回さ
せ、この島を経由して城内に入れないようにしたそうです。
ですので、江戸の初期には庶民も入れるお城として存在したことになります。
さて、ここまでが、10万石の家格、朝鮮通信使の接待など、軍事、港の中心
として繁栄を誇った尼崎藩の歴史です。
では、どうして譜代大名として幕府から大切にされ、栄華を誇った尼崎藩の、
その象徴でもある「尼崎城」が現在に残されなかったのか、その悲しい物語に
ついて次回詳細にご報告したいと思います。