皆さん、こんにちは。
霧隠です。
尼崎城物語の続きです。
2.尼崎藩の衰退
軍事的、経済的に重要な藩として尼崎藩は江戸初期繁栄を謳歌します。
しかし、天下泰平の世と経済発展が尼崎藩の衰退を加速させてしまうのです。
前回、大阪城の抑えという軍事上の役割から実質10万石の家格を与えられ、
軍事的要衝の尼崎城の維持を任されたのですが、戦乱の世が収まり、天下泰
平を迎えたことで、尼崎城の軍事上の重要性が低下します。
そこで、尼崎城の維持費用として与えられていた今津、西宮から兵庫津まで
の灘浜手の村という5万石分の実質収入を1769年幕府の天領として没収され
てしまいます。
代わりに替地を多可、宍粟、赤穂の3郡内に与えられましたが、尼崎藩が受
けた経済的打撃は大きかったようです。
ほとんど収入が半減した結果、江戸時代初期には、600人常駐した城兵が300
人まで減らされます。
さらに、尼崎藩の衰退に輪をかけたのが、経済発展です。
江戸時代初期までは、輸送船や連絡船はおもに小型船だったので、入り組ん
だ湾でも小回りがきくので、むしろ好都合だったのですが、経済が発展した
江戸中期以降だんだん船も大型化していきます。
船が大型化すれば当然、船底は高くなり、浅瀬には乗り入れることができな
くなります。
そうなると、入り組んで浅瀬が多い尼崎の港よりも、大型船も寄港できる神
戸の港が中継港としての重要性が増してきます。
その結果、古代からの良港としての尼崎の衰退に拍車がかかってしまいます。
尼崎の港には漁船くらいしか寄港せず、もうけの多い大型船は神戸の港へ。
しかも、神戸はすでに天領として召し上げられている。
軍事的重要性も失い、かつ経済的にも衰退していく尼崎藩。
この没落が明治以降の尼崎城消滅に大きな影響を及ぼしてしまうのです。
3.尼崎城の消滅
時は流れ、明治維新を迎えます。
尼崎藩の当時の城主は「松平家」。
譜代中の譜代、徳川一族です。
通常考えられるのは、幕府側として薩摩、長州の明治政府軍に対抗すべき立
場にあります。
薩摩、長州は徳川幕府が仮想敵国と考えていた西国外様大名。
そのために築かれたお城が、姫路城、明石城、尼崎城です。
しかし、経済的に疲弊していた尼崎藩は抵抗らしい抵抗を見せないで明治政
府に降伏します。
5万石の石高を没収した江戸幕府の政策の影響で、抵抗する力が残されてい
なかったのです。
あっけない降伏は尼崎城を無傷のまま存続させました。
同じく降伏した姫路城もほぼ完全に残されています。
しかし、尼崎城は完全に消滅してしまうのです。
それはなぜか?
尼崎城消滅の理由は
1.譜代大名ゆえ
2.軍事的理由
3.経済的理由
4.土地問題
の4つのがあげられます。
4つの不幸が重なった結果、尼崎城は跡形もなく「消滅」してしまうのです。
それでは、この4つの理由を姫路城、松本城と比較して説明したいと思いま
す。
まず、譜代大名ゆえという観点から見ると幕末当時の姫路城主は酒井氏。
譜代大名という立場は一緒です。
しかも、酒井氏は当時老中として、徳川慶喜と一緒に鳥羽伏見の戦いに参加
します。
しかし、城主がいない姫路城では残された家臣が明治政府に恭順し、城を無
傷で明渡します。
一方、尼崎藩の城主は、桜井松平氏。
その先祖は徳川家康と同系で、家康4代前の長親から分かれた由緒ある家柄。
この家柄が災いしたのか、それとも桜井氏自身が大げさに考えてしまったの
か、明治政府に恭順を示すためにも尼崎城の取り壊しに積極的になってしま
ったとようです。
ただ、これだけでは尼崎城も姫路城も大きな差にはなりません。
実は2番目の軍事的理由がお城の存亡に最も大きな影響を与えてしまうので
す。まさに、運命の分かれ道。
明治維新当時、各地に軍が駐屯する場所が定められました。
軍事的な要衝に軍が置かれ、大阪、姫路に軍の駐屯基地ができます。
この軍隊の駐屯が姫路城の存続に一役買ったのです。
つまり払い下げの危機を免れることになったのです。
残念なことに三の丸などは兵舎のため取り壊されてしまいましたが、天守閣、
小天守閣、各種櫓などは結果として残されました。
一方、尼崎城は、姫路と大阪に軍隊の基地ができたことで、これほど近くに
近代的な軍の施設は必要ないという理由から軍隊の基地は作られませんでし
た。
この結果、尼崎城は払い下げの対象になってしまいました。
そう、多くの日本各地のお城が払い下げの結果、廃城になったのと同じ境遇
を迎えてしまったのです。
江戸の初期には軍事的な要衝として築城された尼崎城が明治の初めにはその
軍事的価値を見出されなかったのはなんともいえないものがあります。
3番目の経済的な理由ですが、ここだけ松本城との比較になります。
現在国宝の松本城も明治の払い下げによって廃城の危機にさらされました。
しかし、地元の有志、市川量造氏らの尽力によって買い戻され取り壊しの運
命を免れることができました。
それに対して、尼崎城は幕府の政策により5万石の減収になっていたのと、
前述したように港町の衰退によって経済が疲弊しており、明治維新を迎える
頃には尼崎には富豪と呼ばれる商人の存在は皆無で、とてもお城の払い戻し
を阻止する有志も現れることがありませんでした。
どれほど尼崎が疲弊しているかを伝える話として、明治の終わりに武家屋敷
に建っていた家はまばらに10軒程度建っていただけという話が伝わってい
ます。
また、収入のない中でお城の解体、そして売却は貴重な収入源になったので
しょうか、悲しいことに尼崎城は見事にバラバラに解体され、各家々のパー
ツになってしまいました。
四層天守閣、三重櫓、塀、門、すべての遺構が尼崎城から姿を消してしまっ
たのです。
それでも見事な縄張りを示すらせん状のお堀が残っていたのですが、これも
4番目の土地の問題ゆえに完全に埋めたてられてしまいます。
姫路城は城内に軍隊が駐屯する事で、払い下げを免れると供に、その地に他
の建物が立てられる恐れもありませんでした。
ところが、尼崎城は払い下げを阻止する軍隊の存在もなく、すでに全ての建
築物は撤去され、ただ堀を残し、本丸、二の丸などは更地として存在するの
み。
そこに土地不足のためお城の跡には、高校、中学校、小学校などの公共施設
がところ狭しと建てられることになります。
つまり、本丸の場所には中学校、二の丸あたりには高校と分割して建てられ
たことで、本丸、二の丸、三の丸とお堀できれいに区切られた縄張りも一旦
完全に埋めたてられ、その上にそれぞれの学校が建築されるという悲劇が生
じてしまいました。
さらに外堀も道路として埋めたてられ、ここに名古屋城にも匹敵すると言わ
れた名城尼崎城は完全にこの世から姿を消してしまうことになったのです。
このように、尼崎の衰退、城主の恭順、軍事的価値の低下、経済の崩壊、土
地不足などの悪循環に陥り、尼崎城は完全に「消滅」してしまうのです。
この話を開館の方から聞いたときには涙なくして聞けませんでした。
今はなき幻のお城、尼崎城。
次回は、いよいよ尼崎城模型完成の秘話をご報告したいと思います。
それでは〜