皆さん、おはようございます。
霧隠です。

昨日に続いてまして、九州攻め2日目です。

31日朝9時に熊本城頬当門前に今井さんと待ち合わせ・・・
・・・って、門が閉まっている(>_<)

な、なぜにぃ〜

どうやら大晦日はカウントダウン企画の準備のため、夕方5時からの
開門だったようで、しかたなく、予定を変更して人吉城に向かうことに。

時は12時。
日暮れまではまだまだ5時間もある!
ということで、人吉城はとりあえずおいといて、隣にある古城に行くことに。
近くのお食事屋さんにあった地図をもとにさっそく攻略。

なんだかあそこが怪しいなぁとずんずん進んだそこは・・・ヤブでした。
ちょっと進むも朝露で塗れていたので断念。
・・・というより、ここは人吉城の本丸下の曲輪でした。

気を取り直して、てくてくてく。

あ!
こんなところにちっちゃな看板が!
何々。
↑原城

ん? 原城とはなんぞや?

さっそく情報収集〜

近くの民家で尋ねるとおじいちゃんは分からんとのこと。
あきらめて帰ろうとすると、おばあちゃんが
「あぁ、原城ね。やぜさんのお城だね。そこの山だよ。そこの山とあそこの山
 (人吉城)は仲が悪くてね。昔、静岡から来た城主(相良氏)がやぜさんを
 闇討ちにして殺しちゃったんだと。詳しくはお寺の住職が詳しいよ。」

な、なんと、そげなドラマがあったのですか。
確か相良氏は、鎌倉時代に源頼朝から任官され静岡からこの人吉に来たけど、
やぜ氏っていうのは、誰? なぜ闇討ちをされたのか、どういう字を書くのか、
そもそもこんな近くにお城が2つもあるのか。と謎は深まるばかり。

となると、この原城は鎌倉時代のお城になるのだろうか。
俄然、好奇心を書きたてられた某と今井さんは、古城はとりあえず、置いておき
謎のお城原城を探すことに。

そこの山というからには、どこぞに登り口があるのだろうと、さらにてくてく歩く
ことに。

10分くらい歩いたところで、なにやら小さな道らしきもの発見。
もしかして竪堀?
「い、行ってもええ?」
と(ちょびっと)とまどうIさんを強引に誘い、さっそく山の中に踏み込むことに。
う〜ん、ここは竪堀なのか、自然崩落なのか。
よくわからぬままに平な場所に・・・って、まわりは畑でした(−−)。

やっぱり鎌倉時代の遺構なんてどこにもないのかなぁ〜
でも、どことなく曲輪っぽいし。
10分ほどあたりを探索。
結局何の手がかりも見つからずにすごすごもどることに。

と、ふと下を見たらほ、堀切ぐぁ!
思わず駆け下りそうになる自分をぐっと抑えて、とりあえず、ぐるりとまわって
近づくことに。

すると・・・
あ! 看板が! しかも地図つき!
さっそく見てみると・・・
おぉ、やっぱり幻の原城の縄張り図が。
どうやら昭和61年(ちょっと忘れました)に調査が入ったらしく当然、
城郭体系にも載ってないでしょう。
縄張り図を見ると、この原城、上原城、中原城、下原城の3つに分かれており、
それぞれ、堀で区切られており、かなりの大規模な城郭です。

ということで、さっそく探索開始!
まずは、上原城を攻略。
けど、登り口が分からないよ〜

う〜む、どうするべ。
とりあえず、留魂の碑というのがあり、あてもなく登ることに。

どうやら曲輪のような平な地。
なんだか匂います。
すぐさま看板を探すべくあたりをくまなく探索、探索。

・・・あ、あった! 朽ち果ててあやうく忘れ去られようとしている看板が!
大体折れているし(−−)

どうやらここがやっぱり原城だったようです。
目印はほにゃらか寺(←今井さんよろしく〜)にむかうところにある「留魂の碑」
予科連の慰霊碑があるとこです。

この看板によって、ついにやぜ氏のことが分かりました!
矢瀬氏・・・平氏の代官としてここ人吉の地をおさめ、原城を築く。
とあります。その後、相良氏が静岡からこの人吉にやってきて、原城を
拡張していきます。

つまり、鎌倉から明治まで連綿と続く相良氏の前に、源氏の天下になる前に
平氏の代官としての矢瀬氏の存在があきらかになったのです!
このようなところにも源平のしがらみが。
でも、世の中が平氏から源氏に変わったといっても、矢瀬氏はその後どうなった
のか? やっぱり、あのおばあちゃんがいったように新たに人吉に入った相良氏
の闇討ちによって滅ぼされたのか、まだ疑問が残ります。

なんとミステリアスな原城。すっかり虜になってしまいました。

原城の発見に思いの他、時間がかかってしまいましたので、具体的な原城の
遺構に関しては次回ご報告させていただきます。

それでは〜

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